愛されるはずのない肉体を持ったぼくらは。
異性愛者と同性愛者の片思いを徹底比較!ゲイからノンケへの片思いだけがつらく苦しいというのは本当か?
目次
・ゲイからノンケへの片思いはつらく苦しい
同性愛者(ゲイ)から異性愛者(ノンケ)への片思いは、つらく苦しい。それはその恋が絶対に叶うはずがないと、はじめから決まっているからだ。好きな人ができれば相手にも好きになってもらいたい、そして誰もがそう求めるように、手を繋いだり、キスしたり、その先のこともしてみたいと願ってしまうが、同性愛者から異性愛者への片思いでは、その初期段階の「相手にも好きになってもらう」という時点で可能性が0パーセントなので、好きになった瞬間に心が打ちのめされてしまう。
なぜ可能性が0パーセントだと言い切れるのか。それは「ノンケ」という言葉自体が、同性を好きになる可能性がない人間という意味だからだ。ぼくたちゲイは男の肉体を持ち、そして男を好きになるが、大半の男はそうではない。ほとんどの男は「女」という異性を好きになるのだ。そして女の肉体を求めながら世の中を彷徨い、やがてつがいとなり、生殖をすることによって子孫を残し、人類の繁栄に寄与していく。
女の肉体が好きな男の人たちを「ノンケ」というのだから、男の肉体を持ったゲイがどんなにノンケを好きになろうとふり向いてくれるはずがない。なぜならゲイはノンケの求める女の肉体を持っていないからだ。日常生活の流れで自然にノンケを好きになってしまったゲイは、ほとんどの場合誰にもその思いを相談することもできず、好きだと相手に告げることもできず、ひとりきりで悩みながら切ない日々を過ごすことになる。
好きになった人から好きになってもらい、両思いになり、そこから一生を共に過ごしていきたいという人間として当然でささやかな願いが、はじめから叶わないということを知ってしまった絶望は計り知れない。これからも誰かを好きになっても思いが届くこともなく、そんなことがずっと続いた先で人生が終わるのかと思うと、何のために生まれてきたのかさえわからなくなる。
・ゲイからノンケへの片思いだけがつらく苦しいというのは本当か?
しかしゲイとして生きてきたから気づきにくいが、「叶わない片思い」というのは何もゲイからノンケに抱くだけの恋情だけとは限らない。普通に世の中を見渡せば、異性愛者の恋だって「片思い」に満ち溢れているようだ。男が女に叶わない片思いをして思い悩む、女が男に叶わない片思いをして切なさで泣いてしまうということは、いくらでもあるに違いないし、人の世を眺めてみても、テレビドラマを覗いてみても、そういう叶わない恋というのは数限りなくある。何もゲイだけがその特殊な状況の中で、叶わない片思いをしているわけではないのだ。
ゲイからノンケへ片思いする、そしてフラれる、叶わない結果となることは、悲しいことだけれども、まぁそうだよなという気持ちになる。なぜならゲイは、ノンケが大好きな女の肉体を持っていないからだ。求める肉体を持ってもいないくせに好きになってほしいと求めることが見当違いなことは、片思いするゲイだってそれなりにわきまえている。だから片思いが叶わなくて心が引き裂かれるように悲しくても、自分は相手の求める肉体を持っていないのだからという「合理的な理由」を心の片隅に置くことで、なんとなく諦めがつきやすい。
・異性愛者の片思いと同性愛者の片思いの比較
それに引き換え異性愛者同士の片思いはどうだろか。自分は相手の求める種類の肉体を持っているはずなのに、自分を好きになってくれないだなんて、想像したら余計に悲しすぎるのではないだろうか!「愛されるはずの肉体」を持っているにも関わらず、愛されることのない絶望。それは「愛されないはずの肉体」を持っているからこそ愛されない、ゲイからノンケの片思いに比べて、はるかに非合理的で信じられないほど悲しい出来事ではないだろうか。そこには「愛されるはずの肉体」「求められるはずの肉体」を持っているにも関わらず、そんな野生的で本能的で根源的な理由すら凌駕するほどの、拒絶するための合理的理由が潜んでいるということだ。そのような種類の徹底的な拒絶に遭うなんて、もはや立ち直れないのではないだろうか。
「愛されるはずの肉体」「求められるはずの肉体」を持っているにも関わらずそれを超越するほどの拒絶理由には、どのようなものがあるのだろうか。例えば男が女に好きになってもらえない場合、年収が少ないとか、社会を渡っていく能力が低いとか、性格が暗いとか、不潔だとか、様々な理由が考えられるだろう。一方で女が男に好きになってもらえないのは、ブサイクだとか、スタイルが悪いとか、性格がめんどくさいとか、年がいってるとか、同様にたくさんの理由が考えられるだろう。また単純に性格の不一致というのもあるかもしれない。
いずれにしても「愛されないはずの肉体」を完璧な理由にできるゲイからノンケへの片思いに比べて、異性愛者の片思いの方がはるかに複雑で深い悲しみを抱えているのではないだろうか。ゲイからノンケへの片思いなんて、思考停止していても「愛されないはずの肉体だから」と言うだけで、叶わない理由は一発で解決だ。大学受験であればセンター試験が何点以下だからとか、就職試験でいえば学歴が基準以下だからとかいう理由で有無を言わせずバッサリと切り捨てられるように、まさにそのようにしてゲイからノンケへの片思いは「愛されないはずの肉体だから」というだけで、単純に潔く足切りとなる。よく考えれば清々しい恋愛事情であると言えるだろう。
しかし「愛されるはずの肉体」を持っているのに愛されない場合、そもそも足切りなんかされるはずもないのに愛されない場合、すなわち異性愛者の片思いに関しては、愛されるはずがないという前提がない分、もっと深いところまで自分自身を追求して、自分の中の拒否される理由を並べ立てて,、恋が叶わない理由を検出しなければならない。それってかなりつらい過酷な作業ではないだろうか。ぼくたちはゲイからノンケに恋した場合、「愛されないはずの肉体」という絶対的な愛されない理由を持っている分、悲しいことに間違いはないが、結構その絶対的な理由に心が守られていたりするのではないだろうか。
・神秘的で超越的な愛はどこに立ち現れるのか
逆に言えば「愛されるべき肉体」を持っているのだから、異性愛者の恋愛なんて叶って当たり前なのかもしれない。その両思いの中には肉体を重ね合い、子供を作り、子孫を繁栄させ、人間社会を継続させていくという、遺伝子に刻み付けられた合理的な理由があるからだ。
異性愛者の恋愛が叶うことは運命的で神秘的だというのは、果たして本当だろうか。同性愛者から見てみればお互いに「愛されるべき肉体」を持っているのだから、異性愛者の恋愛って叶ってもある意味自然の摂理なんじゃないのと思わないこともない。多くの異性愛者の人々も片思いの苦しみを抱えているが、仮にそれらが叶って両思いになっても奇跡だとは感じられずに「そりゃあそうだろう」「お互いに愛されるべき肉体を持っているのだから」「当たり前の愛だろう」と思ってしまうだけかもしれない。古代から受け継がれた人間の細胞に刻まれた遺伝子が適切に発動し、子孫を残し人類を繁栄させるため、人間たちにそのように行動するよう支配し働きかけているからだ。お互いの肉体にことごとく発情し合うという絶対的で揺るぎない大いなる本能の手助けを借りているのだから、異性愛者の恋愛が叶うのはとても喜ばしいことではあるものの、ある意味至極当然の現象である。
ぼくたちが本当に奇跡だとか、運命だとか、神秘だと感じるのは、愛されるべき肉体を持った者同士が愛し合うことではなく、愛されるはずのない肉体を持った者同士が、魂が共鳴し、呼応し、遺伝子の命令に背きながら愛していると誓い合う時、それこそまさに神秘的な愛だと感じられるのではないだろうか。
そのような神秘的な愛がどこにあるのだろうか。男と女の愛は神秘ではない。そこには古代から引き継がれた遺伝子の合理的理由があるからだ。ゲイとゲイの愛は神秘ではない。最初からお互いに「愛されるべき肉体」を持ちながら愛し合うからだ。
もしもゲイとノンケが、「愛されるはずのない肉体」という決定的で絶対的な絶壁を乗り越えて、お互いに愛していると告げることができたなら、それはまさに「神秘的な愛」と呼べるのではないだろうか。しかしそのようなことが起こらないことはわかりきっている。ノンケは同性を好きにならないと決まっているからこそノンケなのだ。好きにならないとはじめから決まっているからこそ、好きになってもらえたときには「奇跡」と呼ばれるにふさわしいが、そんなことは限りなく可能性が0に等しいからこそ「奇跡」と呼ばれているのだ。しかし起こる可能性が0ではないからこそ「奇跡」と呼ばれているとも言える。
本当にノンケがゲイを好きになってくれることなどあるのだろうか。神秘的で超越的な愛は、この世の存在するのだろうか。それはまた、別のお話。
・大学時代のぼくの2番目の恋について
・ぼくの高校時代の初恋について
・同性愛について