ぼくの神様へのお祈りは一瞬で終わる。
ぼくの生命は祈りとしてこの世に生きている
・神社やお寺で長く祈る人々の風景
ぼくは日本人なのでたまに神社に行く。神社でもお寺でもいいが、他の人や家族が神様や仏様の前で手を合わせてお祈りしているときに、ものすごく長い時間をかけてお祈りしている人をしばしば目撃する。きっとその間に神様に何かたくさんのもしくは深いお願いごとをしているのだろう。おそらく自らの願いや祈りを言葉にして神様に伝えているからこそそんなに長い時間がかかるに違いなく、人の願いや祈りの内容は他人には計り知ることができない。
人様のお願いごとなので全くとやかく言うつもりはないが、そのような人々の祈りを見ているとぼくの祈りとは全く異なるなぁといつも感じる。
・ぼくの祈りはマジで一瞬で終わる
ぼくの神様や仏様の前の祈りは、実に一瞬で終わってしまうからだ。神様の前ならばパンパンして手を合わせてほんの一瞬、仏様の前なら手を合わせてハイ!終わり!という感じでいつも瞬時に終了してしまうので、ぼくが神前を立ち去ろうとする際に誰か連れを伴っている時なんかは、隣で長々と祈りを心の中で唱えているその人を、一瞬で願いが終わったぼくが横でポカーンと口を開けて待っているという構図が繰り広げられている。
一体どうしてぼくの神様、仏様への祈りは一瞬で終わってしまうのだろうか。
・神様への祈りに言葉を媒介する必要があるというのは本当か?
それはぼくが、祈りを捧げているときに何ひとつ考えていないからに他ならない。何も考えず、心が無になっているから祈りの終わるのもとんでもなく早いのだ。他の人々は、神様に対する願いを言葉に変換しているから時間がかかっているのだろう。
しかしぼくの思うことは、神様に対して言葉なんて必要なのだろうかということだ。神様は神様なんだからとんでもなく偉いに違いない。そんな偉い人ならば、別にわざわざ神殿の前で願いを言葉にしなくても、ぼくの願いなんてまるっきり全てお見通しであり、ぼくが何も心で思わなくても、きっとぼくの願いをわかってくれるのだろうとぼくは信じているのだ。
言葉というものは人間社会において便利で役立つ。このブログだって言葉があるから書けているわけだし、人間が人間たる所以も言葉にあるのだろう。しかしその言葉によって傷つき、誤解され、嘘にまみれ、呪われるというのもまた人間の運命である。そんな「言葉」という不完全な媒介を、果たして神様が必要とするだろうかと心から疑問に思うのだ。だからこそ、ぼくの神様への祈りは言葉ではなく「無」によって行う。
心を無にして、神様に手を合わせ、神に向かって直感をピコーーーンと一瞬送れば、それだけで神様はわかってくれるだろうと信じているのだ。神様は偉いのだから、それくらいで簡単にぼくのことを理解してくれるだろう。
・ぼくは神様にお祈りしたいことがない
さらに言えば、ぼくは神様、仏様にお願いしたいことなんて何もない。みんな一体何をあんなに、神様や仏様にお願いしているのだろうか。よほどたくさんの願いや深い祈りがあるのだろうと推測されるが、ぼくは願いがあったとしても神様にお願いしようとは全く思わない。自分でもがき、自分であがき、自分で行動しようと心を定めるまでだ。
もちろん人間なので自分でできることには限界があり、どんな努力も辿り着かない到達点があり、それゆえに人間や自分を超越した神の存在を感じることは当然の成り行きだが、だからといてその偉大な超越におろおろとすがりつこうとは思わない。それよりは自らをことごとく滅ぼされ、せめて来世で願いを叶えられたらと自ら傷つき破滅へと突き進むような質(たち)である。
どうせたどり着けない国の名があるというのなら、そこへと導いてくれるように祖国の神にすがりつき動けないまま一生を終えるよりは、無謀にも愚かしく孤独で小舟を海に出し異郷の波にことごとく滅ぼされよう。
ぼくに祈りがあるとするならば、この生命自体が生きている祈りなのだ。祈りを抱きながら生きる動物ではなく、祈り自体がここに生きている。