男同士の魂が求め合う時、肉体の性が純粋な思いを踏みにじる。
ソウルメイトが同性だった場合は?魂同士が同性を求め合ったとき、肉体的な性という現象が尊い縁を撹乱する
目次
・巡り会いながら通り過ぎる人、親しくなる人
ぼくたちは人生の中で様々な人に出会う。あまりに多くの人に出会うので、ほとんどの人間はどうでもいい、自分には関係のない存在だと通り過ぎてしまうだろう。しかしその中でも立ち止まり、会話を成立させ、心を交わし合い、特別に親しくなる人々も存在する。親しくなるには様々な理由があるだろう。その人と親しくなれば人生において得をしたり利益を得ることができるという場合もあれば、損得など関係なくただ気があったり一緒にいて楽しからと親しくなる場合もある。もしくはその人と一緒にいれば嫌なことや損することや傷つけ合うことばかりなのに、どうしても離れられないような縁も存在する。ぼくたちの人生における巡り会いの縁の姿は多種多様で、ひとつとして同じ縁はない。
・人間の縁は肉体の性的機能により補強される
多くの人間にとって人生における深い縁とは、結婚したり生殖したりする人のことを思い浮かべるだろう。それらは性の働きに由来する。ぼくたちは肉体が成熟すると性という機能に肉体と心を支配され、人間として性的に生きずにはいられなっていく。大抵の場合、男の肉体を持っていれば女の肉体のことを想像せずにはいられなくなり、女の肉体を持っていれば男のことを思わずにはいられなくなり、お互いが性的機能によって強く結びつけられることによって、付き合い、結婚し、生殖し、結果的に子孫を反映させていく仕組みとなっている。肉体に性的機能が発現しているからこそ人間たちはこれまで生命を絶やさず繋いできたのであり、その観点から言えば性的機能が重要であることに異論の余地はない。
・もしもぼくたちの肉体に生殖器の力がなければ
しかし、果たして人間の縁とは性的なものばかりなのだろうか。本当に成熟した生殖器が発情するがままに、性的に興奮し合い、求め合い、動物のように子供を作ることだけが、人間にとっての深い縁なのだろうか。誰もが大人になれば生殖器に支配される人生の中で、性的な縁を無視して生きていくことは難しい。けれどぼくは時々思い出してしまう。生殖器に支配される前の少年の心を思い出してしまう。そして問いかけてしまう。ありえないのに天に尋ねてしまう。もしもぼくたちが少年の頃のように、生殖器に支配されることがなければ、大人になったぼくたちは誰を求めていたのだろうと。
男と女とは、本質的に異なる分かり合えない生き物だ。本来ならば気が合うことも少なく、すれ違いも多く、一緒にいて楽しいことも見出しにくい男と女というものは、性的な力の発現により、生殖器の避けがたいパワーにより、生殖したいという野性的な本能により、自然と結びつけ合うように仕向けられる。もしくは人間社会の中で、男と女が結びついて子供を作ってこそ一人前だという固定観念から、周囲の人々に早く認められたくて男と女でつがいになることもあるだろう。性的な快楽や、子孫の繁栄や、社会的な容認など、男と女が結びつき合えば多くの利益が生まれる。根源的な性のパワーが結びつくように命じているのだから、男と女が結びつくことはごく自然な成り行きと言えるだろう。
しかしもしも生殖器がもたらす発情がなければ、男と女はこんなにも結びつき、一緒に暮らしているだろうか。おそらく生殖器の発情がなければ、男は女に見向きもしないし、女だって男のことなんてどうでもいいのではないだろうか。よくわからない理解し合えそうにない別の生き物と暮らすよりも、もっと気の合う、一緒にいて楽しい、気楽な同性の仲間たちとつるむことが格段に増えるだろう。もちろん男には男の得意なことが、女には女の得意なことがあるので、お互いがお互いに得意なことを助け合って合理的な人間社会を築き上げることはあるかもしれないが、わざわざ一緒に同じ屋根の下で暮らすほどではないだろう。
生殖器がもらたす発情から解放されれば、人間は性的な肉体に支配される操り人形であることから卒業し、魂が求める運命の人に巡り会うための旅に出かけられるはずだ。
・運命の人は、魂によるものか生殖器によるものか
魂が求めている運命の人と、ぼくたちはどのようにして巡り会うことができるのだろうか。この人は運命の人だ、この人と魂を交わらせたいと心から思っても、自分の肉体には生殖器があるから、ただ発情して動物のように性的な快楽を激しく求めているだけなのか、本当に魂が呼び合っているのか、全くわからなくなる。生殖器はぼくたちの縁を深めさせてくれる尊い恵みなのだろうか、それともただ、魂が直感的に求める運命の人との縁を混乱させわからなくさせる、まやかしの臓器なのだろうか。
・魂同士が同性を求め合ったとき、肉体的な性という現象が尊い縁を撹乱する
男の魂は女の魂を求めやすく、女の魂は男の魂を求めやすいというのは、本当なのだろうか。魂には生殖器などないのだから、男も女も関係なく、ただ求め合うように求め合うだけではないだろうか。
もしもこの世で、肉体が男同士の魂が求め合ったならば、何が起きるのだろうか。どちらもお互いに魂が強く惹かれ合っていることを自覚している。しかし相手は自分と同じ男の肉体を持っている。相手が自分と同じ男の肉体を持っている以上、彼のことを求めてはならないと最初は戸惑うだろう。男の生殖器が発動し、彼の肉体を他の女の肉体へと発情させ、男の肉体を持つ魂の方へ向かうのをやめさせるかもしれない。彼の中の社会性が発動し、同性愛へ向かっていっても他人の目を気にすれば大変な思いをするだけだ、それよりもほとんどの人がそうするように、女の肉体に発情し、結びつき、子孫を残し生きて行く方が楽だし利益があると考えることもあるだろう。
魂が純粋に求め合っているという無性の透明な尊い直感を、性という泥が踏みにじる。ぼくたちは誰と巡り会うために生まれてきたのだろうか。生殖器をお互いに摩擦させ快楽を得るための人間だろうか、それとも魂を深く交わらせ肉体を超えた営みを生じさせる相棒だろうか。
本当に魂が求め合っているならば肉体の性など超越して、ぼくたちはお互いに「愛している」と告白できるだろう。同じ生殖器を持っているから求めないなんてあり得ない。男の肉体を持っているから確かな直感を退けるなんて意味がない。損得勘定を超えて、常識を超えて、恐れを超えて、魂が純粋に求め合う声を信じて、ぼくたちはこの一生のうちにどれくらい、超越の愛に巡り会えるだろう。肉体と性がもたらす発情の惑いをすり抜けて、性と発情と利益によって構築された人間社会の抑圧に打ち勝って、ぼくたちはこの一生のうちにどれくらい、真実の愛を獲得できるのだろう。
好きだと言われるはずがないのに、言われてから気がつく。愛していると告げられるはずがないのに、告げられて目を覚ます。あれはあなたの肉体ではなく、魂の声だったのだと。
・同性愛について