ノンケは絶対に男を好きにならない?「自分は同性愛者だ」「異性愛者だ」というのは脆弱な帰納法的公式に過ぎない

 

自分の性別なんて死ぬまでわからない。

ノンケは絶対に男を好きにならない?「自分は同性愛者だ」「異性愛者だ」というのは脆弱な帰納法的公式に過ぎない

・「自分は異性愛者だ」「自分は同性愛者だ」と簡単に判断できるというのは本当か?

人間は自分が性的に何者かをわかっているつもりでいる。男が異性である女を好きになったり、女が異性である男を好きになったりすると「自分は異性愛者だ」と自分自身を判断する。この世には異性愛者の人数の割合が非常に高いので、わざわざ自分は異性愛者だなんて認識せずに「自分は他の人と同じ普通の人間だ」と思っていることも多いだろう。

逆に男が同性である男を好きになったり、女が同性である女を好きになったりすると「自分は同性愛者だ」と自分自身を判断する。同性愛者は異性愛者よりも圧倒的に数が少ないので、珍しい自分の性的指向を誰にも相談することができずにひとりで悩んでしまうことも少なくない。

しかし「自分は異性愛者だ」「自分は同性愛者だ」なんて、簡単に決めてしまっていいのだろうか。またそれはどのようなプロセスで決めていくものだろうか。

 

 

・「自分は異性愛者だ」とどのように言い切れるのか

「自分は異性愛者だ」「自分は同性愛者だ」と認識することは、何ら難しいことではないと感じる人は多いだろう。肉体が成熟すると性的なエネルギーが人間を完全に支配し、人間は性的に何も感じずに生きることができなくなる。

たとえばある男の子が恋に落ちたとする。好きになった相手は女の子だった。この時点で彼が異性愛者の可能性が出てくる。彼は月日と共に次々に恋に落ちていったが1番目に好きになった人も、2番目に好きになった人も、3番目に好きになった人も女の子だった。この時点で自分はもう女の子しか好きにならない男の子なのだと自覚し始める。また彼はエッチな動画や写真を見ることに夢中になるが、興奮するのは全て女の子の肉体だった。男の肉体になど全く興味がなく、いつも女の子の肉体を見つめては性的な欲望をそそられた。

ここまで来るともはや「自分は異性愛者だ」と言い切ってもいいような気分になる。そして彼は自分の中に「自分は異性愛者だ」という公式の看板を掲げながら生きていくようになる。自分は女の子しか好きにならない男だ、自分は女の子の肉体にしか興奮しない男だ、そんな風に固く信じては浮世を渡っていく。しかしこの「自分は異性愛者だ」だという彼の公式は、本当にそれほどまでに信じられる種類のものだろうか。

 

・「自分は異性愛者だ」「自分は同性愛者だ」というのは脆弱な帰納法的公式だ

自分は男の子だ。自分が1番目に好きになった人は女の子だった。2番目に好きになった人も女の子だった。3番目に好きになった人も女の子だった。だからきっと10番目に好きになる人も、100番目に好きになる人も女の子だろう。ずっとこれからも女の子を好きになるだろうから「自分は異性愛者だ」。この発想は一見何の問題もないように思われる。

このように数々の事例をまとめ上げ、ひとつの公式を生み出す作業を「帰納法」という。1番目に好きになった人も、2番目に好きになった人も、3番目に好きになった人もみんな女の子だった。3つの事例で女の子を好きになったのだから、もはや自分は女の子を好きな男なのだろう。従って自分は女の子を好きになる異性愛者だと判断できるというわけだ。彼は帰納法を使って「自分は異性愛者だ」という公式を導き出した。

しかしこの帰納法によって作られた公式には欠点がある。ひとつの事例で例外が生じると、たちまちせっかく作り上げた公式が崩壊して無効になってしまうのだ。たとえば彼が1番目に好きになった人は女の子だった、2番目に好きになった人も女の子だった、3番目に好きになった人も女の子だった…10番目に好きになった人も女の子だった…20番目に好きになった人も女の子だった…30番目に好きになった人も女の子だった…とここまで順調に公式通りに来たとしても、33番目に好きになった人が男の子だったとしたら、「自分は異性愛者だ」という公式はたちまち崩壊し、「自分は両性愛者(バイセクシャル)だ」という公式に書き換えられてしまうのだ!

この危険性はあらゆる人に潜んでいる。たとえばぼくは自分のことを同性愛者だと思っている。それは1番目に好きになった人も、2番目に好きになった人も、3番目に好きになった人も男の子だったから帰納法的にそう信じているのだ。しかしだからと言ってこれから先の人生の中で何かが起こって98番目に女の子を好きにならないとも限らない。未来のことや運命的な出会いなんて、誰にもわからないのだ。その場合はぼくも同性愛者ではなく両性愛者だったという結果になるのだろう。

この世は何が起こるかなんて全くわからないし、未来がどうなるかも予想できないし、どんな運命的な魂の巡り合いが待ち構えているかなんて全然想像できない。ぼくの言いたいことはほんの少ない事例だけで「自分は異性愛者だ」「自分は同性愛者だ」という看板を自らに立ててみんな生きているが、「自分は異性愛者だ」「自分は同性愛者だ」という少例からの帰納法による看板なんて、いつだって崩壊する危うさをはらんだあてにならない偽物だということだ。「自分は異性愛者だ」「自分は同性愛者だ」という嘘か本当かもわからないような幻想の公式に、人生や生命をとらわれるべきではない。

 

・「自分はゲイで、相手はノンケだ」という理由で恋を諦めるのは合理的か

ぼくの経験から言えば大学時代に好きになった男の子は、まさに帰納法を打ち砕く好例だった。彼は帰納法的に見ればどこからどう見ても異性愛者の男の子だった。男子校出身の彼はいつも彼女を作って童貞を卒業したいとぼやいていたし、家にあるエッチなDVDのパッケージには全て女性の裸しか載っていなかったし、携帯の中身を見ても女の裸の画像や動画ばかりで、そこに男を性的に好きだと思わせるものは一切存在しなかった。どう考えても帰納法的に「彼は異性愛者だ」という公式が成り立ち、男の肉体を持つぼくのことを好きになってくれて両思いになれる確率は0に等しかった。

けれどぼくはここで「彼は異性愛者だ」という公式に心をとらわれることがなかった。当時は気づかなかったが、きっとぼくは帰納法的な公式の怪しさに気づいていたのだ。どんなに望みが薄くても、帰納法的な公式なんてひとつの例外を作ってしまえば粉々に打ち砕くことができる。ぼくがその最初の例外になればいいのだと信じていた。

「自分はゲイで、好きになった相手はノンケだ、だからこの恋は叶うはずがない」と悩み立ち止まることは簡単だ。どうせ無理だと諦めて大人しく引き下がってしまえば、自分も相手も深く傷つかずに美しく終わることができるのかもしれない。しかし同時に自らで思考して「自分はゲイだ」「相手はノンケだ」という帰納法的公式の怪しさを認識する必要がある。本当に心からその人のことを好きならば「相手はノンケだ」という帰納法的公式を打ち砕くほどの破壊的な情熱を自分の中で燃え盛らせるべきではないだろうか。自分が最初の例外となって彼の魂の中へと突き進んで行くのだという意気込みと図々しさがなければ、障壁の厚い恋を実らせることは難しいだろう。相手の「自分は異性愛者だ」という公式に伴う安堵感や心の安らぎは相当に大きなものがあり、それを乗り越えて魂が呼び合うためには並大抵の精神力では足りはしない。

確かに、どうしようもないことはどうしようもない。しかし本当にそれがどうしようもないことなのかは、たとえ魂を滅ぼされてもいいという覚悟で、自らの運命に果敢に立ち向かっていかなければわからない境地ではないだろうか。

 

 

・中島みゆき「はじめまして」

シカタナイ シカタナイ そんな言葉を
覚えるために生まれてきたの?
少しだけ 少しだけ 私のことを
愛せる人もいると思いたい

 

・公式を打ち破った先にしか見えない尊い風景をその瞳に

結局絶対にノンケだと思われた大学時代の彼とは、会う度にお互いに好きだと言い合い、抱きしめ合い、キスをして、大切な場所を触り合う恋人同士のような関係になった。女の子の肉体にばかり盛んに発情していた彼の初めての例外となり、ぼくは彼の「自分は異性愛者だ」という公式を打ち砕いた。けれどぼくはそんなに強い力を持っていない。ぼくと彼の思いが自然と呼び合い、彼もおそれを乗り越え一緒になって公式を壊してくれたからこそ、ぼくたちは愛し合えたのだと信じている。

「自分は異性愛者だ」「自分は同性愛者だ」という公式が正しかったかどうかは、実は死ぬまでわからない。ずっと異性愛者だと思って生きてきても、死ぬ前に男が男を好きになってしまったならば、例外により帰納法的公式は打ち砕かれ、彼は両性愛者だ。自分が何者かなんて死ぬまでわからない。完全にはわからないのならばいっそのこと公式などにとらわれず、人生のうちで一度や二度くらい公式を打ち砕く神秘的な体験をしてみるのも悪くはない。破壊には確かに大きな苦しみがつきまとうが、打ち砕いた先にしか見えない秘境的な風景がこの世にはいくつも隠されていることも事実だ。自分だけの美しい風景を眺め、やがて必要になる時のため、心の中に大切に閉まっておこう。

誰もが正しいと信じきっている公式に支配されながら生きていくことは容易い。けれど自らの感性や思考で怪しいと感じるならば、その公式を破壊し、異なる真理を自らの腕で創造することは人生において最も重要だ。労働や、金儲けや、消費など、見知らぬ誰かが社会において重要だと思い込めと洗脳してくる行為よりも、はるかに重要だ。破壊は暴力的でおぞましい行為ではなく、人々を迷妄へと導くまやかしを何もかも焼き尽くし、もう一度再生させるための神聖な行為だ。破壊することを恐れることなく、ただ進め。

 

 

・大学時代の2番目の恋について

大学時代、ぼくは片思いしているノンケの友達に膝枕されるのが好きだった

大学時代、片思いしているノンケの親友の幸せはぼくの地獄となることを知った

両思いに!大好きなノンケの親友に告白したら毎日「好きだよ」と抱きしめてくれるようになった

大学時代、ノンケの彼とゲイのぼくは会うたびにキスするようになった

ノンケの親友と愛し合いながら、彼は同性愛と異性愛の狭間で不安定にもがき苦しんでいた

ノンケの彼とゲイのぼくは、どんなに好きだと抱きしめ合っても恋人同士にはなれなかった

ゲイのぼくとノンケの彼は、お互いの部屋の合鍵を交換して恋人のように逢瀬を重ねた

ノンケの親友とゲイのぼくは、同じ果実を男同士で触り合って同じ快楽と幸福を感じた

大学時代ノンケへの片思いを通して、ゲイのぼくは叶うはずがない運命の恋でさえ叶う瞬間があることを知った

ノンケの彼はぼくを好きだと抱きしめながらも、女の肉体を探し求め続けた

ノンケの彼には、ぼくとの同性愛的体験を受け入れる覚悟と誠実さがなかった

ノンケの彼との恋愛がつらく苦しすぎて、ぼくは通常の学生生活が営めなくなっていった

大学の留年を機に、ゲイのぼくとノンケの彼は少しずつ離れていった

ノンケの親友に失恋!ノンケの彼はゲイのぼくを裏切って彼女を作った

ノンケの彼と別れて、彼の部屋の明かりを見るだけでぼくの心は泣いていた

 

 

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