何でもできると思う間があって…。
生き残った少年の万能感を尊く思い育んでこそ生命の幸福は訪れるだろう
目次
・中島みゆき「一生と一日」
一生は短い
何かできないかと思う間があって
何でもできると思う間があって
何もできないと思う間があって
何もしない間に一生が終わる
・幼児的万能感を克服し、覆い隠し、打ち砕くべきだというのは本当か?
中島みゆきの詩「一生と一日」のように、人間には幼児期に”自分は何でもできる”と信じ自分を特別な存在だと感じる時期がある。調べてみるとこれを「幼児的万能感」というらしい。
しかし通常ならば発達の段階で5歳くらいにはこの「幼児的万能感」は消失し、自分は何でもできる、自分は特別な存在だとは思わなくなるらしい。理由は簡単だ。なぜなら全ての人間は決して”何でもできる”ような生物ではなく、人間の子供も5歳までにはいくら子供と言えども、自分が何でもできる特別な存在ではないということに、薄々気づき始めるからだ。
けれど中には幼少期に挫折した経験が少なかったり、親がなんでもやってくれたりすると万能感が消失せずに万能感を伴ったまま大人へと成長する例もあるようだ。幼少期の万能感を持ったままで大人になることで、感情のコントロールができない、他人を見下す、相手をコントロールする、現状を受け入れられないなど、社会生活を営むにおいて困難が生じることもあるらしい。
それゆえにインターネット上には「幼児的万能感を克服する方法」や「幼児的万能感を打ち砕く方法」の情報であふれている。成熟した社会生活を営む上で支障となる「幼児的万能感」なんて不要な邪魔者でしかないから、どのようにして押さえ込んだり捨て去ろうとするかが、人間社会において求められているテーマであるようだ。しかしそのようにして自らの幼児的万能感を敵とみなし、どうにかそれを打ち砕いてやろうという考えは、本当に人間の生きる姿勢として正しいものだろうか。
・無能期、万能期、成熟期の関係
ぼくたちはこの世に生まれてから大人になるまで、様々な成長段階を経験する。それこそ中島みゆきの詩「一生と一日」にあるように、何かできないかと思う時期があって(無能期)、何でもできると思う間があって(万能期)、何もできないと思う間があって(成熟期)、徐々に大人へと成長していく。
しかし自分が成熟期の大人になったということは、それ以前の無能期や万能期の自分自身を捨て去ったということを意味しているのだろうか。自分が成熟できたのは、無能期や万能期の自分と綺麗さっぱり決別して別れを告げたからだろうか。人間はあらゆる自らの過去を捨て去って、その代わりに未来の自分を手に入れるのだろうか。
いや、あらゆる過去はぼくたちの根底に眠っている。無能期や万能期の自分を過去に捨て去り置き去りにしたから成熟期の自分を手に入れられたわけではなくて、成熟期の自分というのは、無能期や万能期の自分自身という土台の上に成り立っている存在だ。無能期や万能期という過去があるからこそ、今自分は成熟した存在としてしっかりとこの世に立てているのであり、もしも無能期や万能期が急に消え去ってしまったならば、成熟期の自分はこの世に立つ土台を失い、存在もろとも崩れ去ってしまうことだろう。
人間というものは常に”今”という時勢に生きているので過去をないがしろにしがちであるが、過去があるからこそ、過去という土台がしっかりと自分の足元で自分を支えていてくれているからこそ、今の自分はここに安定して存在できているわけであり、過去をないがしろにする者には”今”も”未来”も与えられないだろう。
今のぼくらの存在は、過去をはらんでいるからこその今、まさに英語の授業で習う現在完了の用法(have+p.p.)のような存在として、この世に君臨している。あらゆる過去は今を生きるぼくたちの一部であり、ぼくたちは本来、過去を敬い崇拝すべきである。
・自分を可愛がろうとするあまりに自分を滅ぼそうとする企み
大人になった自分の肉体に純粋な少年の頃のような万能感が未だに宿っており、そしてそれが成熟した社会生活を営むために邪魔であるから抹消したいなどというのは、なんと卑しい考え方だろうか。
それはまさに、自分自身を敵と見なし、虚しいことに自分自身を傷つけようと企んでいることと同様である。自分を可愛がってやりたい、自分を守ってあげたい、自分を幸福にしてあげたい、自分を成熟した社会に適応させてあげたいと願うあまりに、自分自身の過去である万能の少年を覆い隠し、なかったことにしてやろうとするなんてとてつもない矛盾である。なぜなら万能的な少年は今のあなたという存在をこの世に立たせている確かな土台であり、今のあなた自身であり、彼を敵と見なし打ち砕いてやろう、消滅させてやろうとするのは、結局今の自分自身をひどく傷つけてしまうことに繋がってしまうからだ。
・ぼくたちの幸福の岸辺
自分を社会に適応させてやることが自らの幸福だろうか。自分を人間関係に苦しませないことが自分を可愛がり守ってやることに繋がるだろうか。その方が楽に生きられるから、あなたは幸福になるというのだろうか。その方が食いっぱぐれなく容易く給料をもらえるから、あなたはそれを望むだろうか。誤解されることもなく、変わった人だと噂されることもなく、社会に適応した普通の人間になることが、すべての人間にとっての夢だろうか。
あなたの万能的な少年は生き残った。あらゆる人間が彼らを覆い隠し、なかったことにして、自分自身をごまかしながら人間生活を送る中で、時代の流れに巻き込まれることなく、あなたの万能的な少年はあなたの表層に濃厚に出現している。それには何の意味もないとあなたは言うだろうか。
ぼくたちの外側からぼくたちに訴えかけるものと、ぼくたちの過去の根源からぼくたちに叫んでいる声の、一体どちらがぼくたちにとって尊いだろうか。外側の世界は効率を求めている、外側の世界は合理を求めている、外側の世界は従順を求めている、いずれもぼくたちを都合よく動く部品に成り果てるように望んでいるのだ。内なる少年は自由を求めている、内なる少年は旅を求めている、内なる少年は飛翔を求めている、いずれも”全体”として生きることを切実に欲しているのだ。
楽に生きられる道は決まり切っている。苦労のない道はわかり切っている。浮世を容易く渡るための安全な船は、大勢の人に用意される。万能的な少年を喪失した人々は、偽りの心を抱きしめながら船に乗る。分別のあるおとなしい人々は、間違った方角が示されるはずがないと水の上をゆく。その船がどこにもたどり着かずに、虚しい永遠の輪廻を描くことなど知らされずに岸を離れる。
尊いものはどちらだろうか。手放すべきはどちらだろうか。本当は崇拝し崇め奉るべきものを、誤って敵だと思い込まされてはいないだろうか。羅針盤は燃えさかる炎のような生命。まるで自我さえも滅ぼされるような鏡面の宇宙。聡明な人々は、既に渡り終わっている。電子空間からの教えも、浮世に流れる噂話も、遠く離れた岸辺に風を受けながら、既に彼岸へ渡り終わっている。