叶わない恋に魂を滅ぼされた者たちへ。
ゲイがノンケに恋をすることは、人がどうせ死ぬのに生きることと似ている
目次
・人間はいつか死ぬのになぜ生きるのだろうか
人間はいつか死ぬのに生きている。それはぼくが幼い頃から不思議に思っているすべての人間の現象のひとつだ。動物の中で人間だけが、将来自分が必ず死ぬことを知っている。それは今まで生きてきたすべての人間を確認しても、死ななかった人を見出せないからだ。今まで生きてきたすべての人は死んでいる。だから自分もいつか死ぬに決まっている。ぼくたちは帰納法を利用し、自らの生命に死が内在していることを確認する。
どうせ死ぬことを知っているのに、なぜすべての人間は生きているのだろう。名を残すためだと言う人がいる、記録を残すためだと言う人がいる、子孫を残すためだと言う人がいる。しかし太陽が死を迎える時、膨張して地球をすっかり飲み込んでしまうことは明白だ。地球が消滅してしまうことが既に決まっているというのに、名前や記録や子孫なんて残して何の意味があるのだろうか。
ぼくたちは畢竟、なぜ生きているのかわからないままに、生命の根源から訪れる直感的なエナジーに従って生きているに過ぎない。
・同性愛者(ゲイ)が異性愛者(ノンケ)に恋をするのは無駄な行為
同性愛者(ゲイ)が異性愛者(ノンケ)に恋をするのは無駄だと言う人がいる。論理的に考えればもちろん誰もがそう考えるだろう。ゲイとは男を好きになる男で、ノンケとは女を好きになる男だ。ゲイがいくらノンケを好きになったところで、ノンケは女の肉体を求めているのだから、絶対に男の肉体を持つゲイを好きになることはありえず、ゲイとノンケが両思いになって結ばれることはないはずだからだ。
ゲイがノンケに恋をすることは意味のない行為だ。どうせ叶わないくせに無駄にエネルギーを消費し、無駄に傷つき、無駄に苦しみ、無駄に涙を流しながら、結局は最後に「思いは叶わなかった」という最初から分かりきった答えを見せつけられるだけだ。
それでも恋は突然まるで天災のように降り注ぐものだから、どんなに享受したくないと願っていても、人は受け取らないわけにはいかない。どうしようもなく人を好きになり、好きになりたくもない人に肉体と心のすべてを動かされながら、この天災が早く過ぎ去ってくれることを天に祈ることしかできない。その恋は無駄だと外から指摘することは容易いだろう。しかし恋の天災の真ん中で必死にもがいている生命にとっては、外の声など夢の中の砂の城ほど意味を持たない。
・宇多田ヒカル「真夏の通り雨」
勝てぬ戦に息切らし
あなたに身を焦がした日々
忘れちゃったら私じゃなくなる…
・叶わない恋に魂を滅ぼされることで、ぼくたちは真実の生命へとたどり着く
ぼくが自らの根源の炎に燃やされて、どうせ叶わない相手に恋をして苦しみを享受している時、今まさにぼくは真実の生命を貫いて生きているのだと感じていた。それはぼくの恋が、人間の生きることによく似ていて、ぼくの恋はすべての人間の生命の河に直結していたからだ。それは矛盾をはらんだ、どうせすぐに死ぬのに必死にこの世を生き抜いているすべての魂を乗せた大河だった。どうせ死ぬのに生きている者たち、どうせ叶わないのに恋をする者たち、救いを求めるそれらの打ちひしがれた思いは共鳴し、ぼくの中で生命と恋の燃え盛る炎を同一化させた。
真実の生命を感じ取るためには、絶対に叶わない思いを抱き続け、天に祈りを捧げ、そして大いなる存在と魂を通わせる瞬間が必要だ。ぼくにはそれがもたらされた。それはぼくが叶わないと決まり切った定めに、愚かしく挑み続け、ことごとく傷ついたからに他ならない。もはや立ち上がることもできないほどに魂を八つ裂きにされ、根源から存在をひき千切られ、それでもなお諦め悪く運命に反抗しようとした意思の遡上は世界で最も滑稽な有様だった。
敗れ、ついにぼくはこの世の者ではなくなった。本当はこの世に生きていないのに生きているフリをした者となった。抜け殻だろうか、幽霊だろうか、亡霊だろうか、いかように名付けられようともぼくには関係のないことだった。ぼくはもはや「異界」へと旅立っていた。何もかもを捨て去って、何もかもを過ぎ捨てて、裸体のまま春の光のような異界に立ち尽くしていた。そしてぼくは永遠に、真実の生命の大河の流れの歌を聞き続けた。どこからともなく訪れる清らかな根源の上流に、密やかに思いを馳せながら。
・大学時代のぼくの2番目の恋について
・同性愛について