少年に精液を植え付けられることがなかったら、ぼくたちは何を求め愛しただろうか

 

男はいつも射精をしたがっている。

少年に精液を植え付けられることがなかったら、ぼくたちは何を求め愛しただろうか

・クレヨンしんちゃんによる性の予感
・能動的な男性、受動的な女性
・男はスケベでどうしようもない生き物だというのは本当か?
・精液の能動性、生理の受動性
・極地にある男性の受動性
・精液を植え付けられた少年たちの祈り

・クレヨンしんちゃんによる性の予感

アニメのクレヨンしんちゃんを見ていると、幼いながらも人間の性的な機能について密かに予感することができる。クレヨンしんちゃんは幼稚園児であるのに大人のように性的な精神的特徴を有し、人間社会における男と女の関係を見ている子供たちにあらかじめわかりやすく伝える役割を果たしていることに間違いはないだろう。

クレヨンしんちゃんの見所といえば、主人公のしんのすけのスケベさにある。いつも綺麗なお姉さんをナンパしてはデートに誘おうとしたり、性的に見たり、デレデレしたりしている。またぞうさんやケツだけ星人をして、男性生殖器やお尻を世の中に向けてあからさまに露出することにより、男性の性的な色彩をより一層際立たせている。男性というものは、しんちゃんのように能動的に性的な部分を他者に向けてアピールしたがる欲望を密かに隠し持っていることも示唆される。

また、アニメクレヨンしんちゃんにおいてスケベなのはしんのすけだけではない。クレヨンしんちゃんの父親であるヒロシをはじめ、登場人物の男性のほとんどが大概スケベであるように描かれている。みさえやひまわりもイケメンを見て目を輝かせたりする描写はあるものの、男性が女性を性的にスケベな目で見て、男性はスケベでどうしようもないもの、仕方のないものとして描かれていることの方が圧倒的に多く、男がどうしようもなくスケベであるという面白さがクレヨンしんちゃんの面白さの根幹にある。

 

 

・能動的な男性、受動的な女性

さて、このように男性が能動的に女性に対してスケベであるというクレヨンしんちゃんの描写は、そのまま実際の人間社会にも適応できると思われる。人間社会においておおらかに下ネタを言えるのも男の方だし、性的な動画も女性用よりも男性用の方が圧倒的に多く、また女性器はなるべく隠されるべきであると見なされるのに比べて男性生殖器はトイレで丸見えでも許されるという観念からもそのような予感が得られるだろう。

世の中における男性生殖器と男性の裸体についての考察

女性よりも男性の方が性的に積極的、能動的であり、デートに誘うのも男からの方が多いし、生殖行動を強く衝動的に望んでいるのも男の方だというのが、真実かどうかは置いておくとしてもなんとなくそのような雰囲気が世の中で成り立っている。

実際の生殖行動においても、性的な液体を積極的・能動的に注ぎ込むのが男性の役割であり、女性はその液体を受動的に受け取る側なので、どうしても性的には、男の方が積極的で能動的イメージを植え付けられてしまうのは、生物学的に言っても仕方のないことなのかもしれない。男性が強い性的な衝動に駆られスケベな思いをむき出しにし、積極的・能動的な性的行動を女性に対して行うことにより、子孫は生み出され人類は繁栄していくと見なされている。

 

 

・男はスケベでどうしようもない生き物だというのは本当か?

男性は性に関して積極的・能動的であり、スケベであり、さらにはその性の役割を進んで楽しんでいるという風に受け取られがちである。男性の性的欲望は、どうしようもないものであり、仕方のないものであり、クレヨンしんちゃんのように少しあからさまにすることも問題ないことであり、明るいものであり、笑える楽しい可愛らしいものだと見なされている。

女性の性的な機能では、出血したり、それゆえに面倒な場合があったり、さらには痛みを伴ったりするものとして決して楽しいことばかりではないことも伺い知れるが、男性的な性的機能は単純であり、苦痛や痛みを伴う場合もきわめて少なく、射精における快楽だけに帰着すると思われている。

それゆえにぼくたち男性は、与えられた男性という性的機能を積極的に楽しんでおり、能動的にスケベであることをうれしがり喜んでおり、射精という生殖機能の最終目的地を自ら望んで享受していると思われがちである。果たしてそれは本当だろうか。

 

・精液の能動性、生理の受動性

男性の性的機能の最終目的地である射精は、決して自然に訪れる出来事ではない。自分がもしくは他者によって積極的に刺激されることによりはじめて得られる快楽である。男性の性が能動的・積極的なイメージがあるのは、そのような理由もあるように思われる。

一方で女性の性的機能である生理には積極的な意味合いがなく、定められた運命とも呼べる非常に受動的で自動的な機能である。女性の性が受動的と見なされる理由には、その関係性も見逃せないだろう。

 

 

・極地にある男性の受動性

男性の肉体というものは精液を蓄えるようにつくられている。精液を蓄えることにより性的な衝動が発動し、スケベとなり、積極的・能動的になり、射精をするための相手を夢中でさがし始める。それは大抵の男性というものの運命だ。しかし間違ってはならないのは、男性の性的機能が積極的・能動的な観念で満たされているからと言って、男性が望んでそのような性的機能を積極的・能動的に受け取り、楽しんだり喜んだりしているわけではないということだ。

男性は好きで自ら精液を蓄えているわけではないのだ。それはただ、運命的に与えられただけのことであり、自分から好きで男性になった人間もいなければ、自分から進んで精液を天からもらい受けた人間も存在しないだろう。それはただ、運命的に与えられただけだ。欲しいとは言わない、くださいとも言わない、それなのにただ自動的に与えられた定めに他ならない。そのような観点から言えば、男性の性だって十分に受動的である。

男というものは、「生まれる時に男性か女性かで、たまたま男性として選ばれ、たまたま精液を蓄えるような肉体につくられ、たまたま自らの肉体に蓄えられた精液からの衝動的性的機能により、著しくスケベとなり、性的積極的・能動的な存在となり、射精の快楽を与えられ夢中になりその相手や女性の肉体を求めてさまよい歩く」ためにつくられた“受動的な存在”に過ぎない。

受動的に与えられた運命や精液が、男性に積極性や能動性を発動させるからと言って、あらゆる男性の根幹が積極性と能動性で満たされているというのは間違いである。あらゆる男性のスケベな積極性と能動性の底には、自分ではどうしようもなかった定めとしての“受動性”が眠っている。

 

 

・精液を植え付けられた少年たちの祈り

もしも男性という肉体へと植え付けられることになった魂が、精液を持たなかったとしたら、ぼくたちはもうひとつの性、すなわち女性を求めるのだろうか。精液に支配されることなく、スケベに仕立て上げられることもなく、ただ透明なままの魂を保てたならば、ぼくたちは果たしてどのような生命を求めるのだろうか。

精液という強力な地図が指し示す場所ではなく、射精という快楽が導く場所ではなく、本当にぼくたちが魂の根源から求めあってしまうような、もうひとつの美しい魂はどこにあるのだろう。恋に惑わされることもなく、欲望にさらわれることもなく、澄明で純粋な羅針盤が生み出す歌はぼくたちをどこへと運ぶだろう。

少年たちは精液を植え付けられて、逃れられるはずもなく、本当に欲しいと切実に願うものを忘却し、異なる肉体を求めてしまう。少年たちがもういちど精液を退けられたならば、彼らが本当に求めているものはなんだろう。射精の快楽をゆるす肉体ではなく、寂しさを紛らわせる空白ではなく、少年たちが望むのは意外と、幼き日に無意識に駆け回った河原の美しい水の光なのかもしれない。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ