ぐちゃぐちゃに握りつぶしてしまったゴムを、ぼくはいつまでも握りしめてた。
ノンケの彼の鞄からコンドームが出て来たけれど、ぼくは悲しみも絶望も何も感じなくなった
目次
・大学時代、ゲイのぼくとノンケの彼は恋人同士のような関係になった
大学時代、ゲイのぼくと同級生のノンケの彼は不思議なことに恋人同士のような関係になった。合鍵を交換しお互いの部屋を行き来して、「好き」と言っては抱きしめ合い、甘え合い、キスして、触り合っていた。
けれど若い彼の燃え盛る本能はいつも女の肉体を求めていた。ぼくという例外がいてもそれを止めることなど到底できずに、ついに彼は人生で初めての彼女を作った。けれど彼はぼくに決してそれを教えてはくれなかった。ぼくはそれを裏切りだと憎んだし、彼もそれが裏切りに当たると知っていたから、ぼくに何も言わなかった。2人が最も幸せになる道は2人が会わないことだと悟り、ぼくはもう彼の部屋に行かないことを決めた。
心が引き裂かれそうになりながらも4ヶ月間、彼に会わないように努力していたけれど、そんな努力も彼から2通のメールが来ただけで無意味に帰してしまった。大好きな彼から部屋に来てほしいと求められることで、ぼくのどんな決心も努力もいとも容易く崩壊してしまうのだった。ぼくは彼に「他の人にも好きって言ってるならちゃんと教えてほしい」と問い詰めた。彼はぼくに「他の人には好きだなんて言っていない。信じていいよ」と答えた。彼はいつもぼくを裏切って、ぼくは彼を信じてはいなかったけれど、それでもぼくは彼が大好きだった。彼がぼくのことを好きだと言って抱きしめてくれるだけで、ぼくの心は少しずつ満たされていた。
けれどそれすら嘘だったことが、クリスマス近くになって彼から明かされた。彼はまだ彼女と付き合っているから、24日は一緒に過ごせないことをぼくに告げた。ぼくは何度裏切られても、何度嘘をつかれても、彼を嫌いになることはできなかった。そして彼はずっと欲しかった女の肉体を手に入れてもなお、無意味にぼくのことを求め続けた。
・ノンケの彼の鞄からコンドームが出て来たけれど、ぼくは悲しみも絶望も何も感じなくなった
彼の部屋を片付けていると、彼のカバンの中からコンドームが出てきた。全部で6個入りのうち、3つがなくなっていた。彼はぼくの知らないところで、童貞を卒業していた。彼の果実は、もうぼくだけが触ったことのあるものではなくなっていた。それでもぼくはもう、何も感じなくなってしまった。悲しみも、絶望も、孤独も、全ての感情を忘れてしまったかのようだった。ぼくはこれまで彼に裏切られすぎて、傷つけられすぎて、もはや心が死んでしまったようだった。悲しみが多すぎると人は、自らの心を殺して、もう何も感じないようにして、自分自身を護り抜くのかもしれなかった。
ぼくが彼によって裏切られ、傷つけられ、ひとり部屋で泣いているときにさえ、彼は女の肉体に発情し、夢中になり、初めての快楽に歓喜し、野性的な幸福感に包まれていたのだった。正しい人が幸せになって、悪人が不幸になるというのは嘘だと思った。彼のことを変わらずに好きでい続けたぼくは悲しみが多すぎて心を喪失し、ずっと好きだと言い合っていたぼくを裏切って女の肉体を手に入れた彼は幸福と享楽の真ん中にいた。ぼくはこの世が不条理に満たされていることを魂の全てで感じ取っていた。裏切っても裏切っても彼はぼくを見放して、自分だけの野性的な幸福へと突き進んでいた。裏切られれば裏切られるほど、彼への思いが一途であればあるだけ、ぼくの心は鋭いナイフでえぐられて血を流し殺されてしまった。
ぼくが彼を好きだということが、何よりもいけないことだった。男が男を好きになることが、何よりもいけないことだった。ぼくが男を好きになることが、何よりもいけないことだった。けれどなぜぼくが男を好きになるのか、自分のことなのにぼくには全くわからなかった。なぜぼくが男を好きになるのか、それは世界の誰にもわからなかった。
ぼくたちがどこにでもいる普通の恋人同士の関係ならば、ぼくは大学の友達に彼の裏切りと非道を語っただろう。そして彼は悪人として糾弾され、罰を受ける結果となったかもしれない。けれどぼくたちは男同士だったから、どんなに彼に裏切られても、どんなに彼に傷つけられても、ぼくはひとりで悩んで凍えて泣いているしかなかった。この世で彼が悪人になることはなかった。もしかしたら彼もそれを知っていた。だからこそ何ひとつ悪びれることもなく、自由に、堂々とぼくを裏切り続けたのかもしれない。彼が悪人であることは、他でもない彼だけが知っている。けれど世の中が誰ひとりとして彼を悪人だと知らず、彼だけが自分を悪人と知っているその事実に、一体どれほどの意味があるのだろうか。彼は自分だけが知る悪人として、これからも何ひとつ罰も受けることなく幸せになり続けるのだろう。それが不条理な世の習わしだった。善悪なんて、本当はこの世にはなかった。ただ無慈悲な混沌が、厳然と横たわっているだけだった。
・その日のぼくの日記
あいつのカバンの中から見える箱
そうじゃなければいいのにと思う心に現実は従わない
取り出せばそれは、あいつが彼女と使ったゴムの箱
6個入りなのに3個しか中には入っていなかった
あいつが財布の中にいつも入れてたひとつのゴムも消えていた
もうどうでもいいとか、どうしようもないとか
思いつつも一応、怒ってみなきゃつまらないから怒ってみる
ゴムの箱をあいつに投げつけてみる
「それなんなん」
って言いながらちょっとすねてみる
『あーだからいろいろ見るなって言ったやろ』
ってあいつは返す
「なんなんそれ」
ぼくは繰り返す
あいつは黙ってる
分かってることを聞いてみる
「まだ裏切りは続いてるの」
あいつは分かってること聞き返す
『裏切りって何のことか分からんねんけど』
分かってること分かってるからぼくは返す
「分かってるのに聞かないで まだ裏切ってんの」
あいつは下向いて返す
『うん…』ぼくはだんだん本気で悲しくなる
ぼくがあいつに裏切られたせいでずっと泣いたり悩んだり苦しんだりしてる時に
あいつは幸せやったんや
あいつが全部裏切ったのに
あいつだけ幸せやったんや
あいつが全部裏切ったのに
ぼくだけ泣いて悩んで苦しんで
どうしてあいつだけ幸せなの
何がこの世界を不公平にしてるの気が付けば箱に入った3つのゴムを
手の中でぐちゃぐちゃにつぶしながら
その手であいつを叩いてた
「最悪…最悪…」
って言いながら
何が最悪なのか分からない
男を好きなぼく
裏切ったあいつ
この世界
何が最悪なのか
ぼくには分からない
自分の言葉さえ分からない次第に涙が出てくる
試しに怒っただけだったのに
知らぬ間に感情が止まらなくなる
「ひとりにしないで
ひとりにしないで」
何を言っても無駄なのにそんな言葉が口を突く
「ひとりにしないで
ひとりにしないで」もうひとりになっているのに
生まれてからずっとひとりなのに
これからもずっとひとりなのに
ひとりで生きていくこと
覚悟していたつもりで
幼い頃から
分かっていたつもりで
本当は怖かったんだ
ひとりで生きることが
そうなるべき運命を抱えた人生だって
ちゃんと分かってる人を演じて
本当はどこかで夢見てたんだ
誰かがそばにいてくれること
好きっていってくれること
愛してくれること
人はどんなに言葉で分かっていても
夢見てしまう生き物
たとえどんなに小さな期待でも
消えてしまいそうなかすかな希望でも
そんなものないも同然だって物分かりのよいふりをして
本当はね
本当はね
いつだって忘れない
叶わないことを叶うかもしれないと願うことを
叶わないことを叶うはずだと信じることを
そして生きることをぐちゃぐちゃにつぶしてしまったゴムを
ぼくはいつまでも握りしめてた
でもどんなにぐちゃぐちゃにしても
開けてしまえばまだ中身は使えそうだった
どんなに強く握りしめても
中身は生きていた
どんな力でねじ曲げようとしても
どんな力で押し伏せようとしても
変わらないものをぼくは見た
それはまるで
あいつが女を好きであること
ぼくが男を好きであることみたいで
無力だと思った
虚しいと思った
・コンドームと合鍵
ぼくはつぶしてしまったコンドームを、彼の部屋から持ち帰って開けた。そして彼の部屋の合鍵を、ゴムの中に入れて遊んだ。生々しいゴムは、大河の象徴だった。男が女を愛するという、ありふれた大河の象徴だった。彼がぼくに与えてくれた合鍵は、小河の象徴だった。ぼくと彼が男同士で好きだと交わし合った、消えてしまうほどの小河の象徴だった。
小河は大河に絡め取られ、その身動きを奪われた。あまりに小さかった好きという言葉は、なかったことになるのだろう。大自然と宇宙と本能の大いなる渦に巻き込まれ、はじめから、なかったのと同じことになるのだろう。
・大学時代のぼくの2番目の恋について
・ぼくの高校時代の初恋について
・同性愛について