魂がさすらう者にとっては、性別など関係がない。
ぼくが同性愛者(ゲイ)としてブログを書こうと思った理由
目次
・中島みゆき「旅人のうた」
中島みゆき「旅人のうた」の中には、次のような歌詞の一節がある。
男には男のふるさとがあるという
女には女のふるさとがあるという
何も持たないのはさすらう者ばかり
どこへ帰るのかもわからない者ばかり
人間は大抵、性別というものを意識しながら生きている。自分は男だ、自分は女だ、そう意識しないで生きない人はいないだろう。性別というものは普通肉体と結びつき、自分の肉体が男のそれであれば男、女のそれであれば女という風に人は2つに分け隔てられる。
子供の頃は曖昧なままでゆるされていた性的な差も、成長し生殖機能が発達するとともにもはや無視できなくなるほどに大きくなる。男の肉体はより男らしくなり、女の肉体はより女らしくなり、それに伴ってお互いの肉体を求め合いながら、その結果として新しい生命が誕生するというのだから、性別というものは人間にとって大きな意味を持っている。
男と女というものは同じ「人間」という種類であるにも関わらず、全く別の生き物のように異なりながら共存している。その男女の違いは中島みゆきに「男には男のふるさとがあるという 女には女のふるさとがあるという」と歌わせるほどに大きい。同じ人間という生き物なのに、男と女は別々のふるさとからやって来た異なった種族なのだと「旅人のうた」は歌っている。
しかしこの歌詞で重要なのは、実はそこではない。男には男のふるさとがあり、女には女のふるさとがあり、しかし男のふるさとにも女のふるさとにも属さない種類の人間がこの世には存在しているのだと中島みゆきは歌う。男にも属さない、女にも属さない、その人間の名は「さすらう者」、すなわち旅人であるという。旅人はいかなる肉体を持っていようとも、いかなる精神を担っていようとも、さすらうというその行為において、男女という性別など超越しながらこの世を生き抜いているのだという。
・ぼくは異国を彷徨う旅人となった
2018年、ぼくは旅人になった。それまで3年間働いて来た仕事を辞めて、異国をさすらう旅に出ようと心に決めていた。旅に出ることに理由など必要なかった。ただ自らの存在の根源に「この魂は旅に出なければならない」という旅の炎が燃え盛っているのを感じたことだけが、ぼくが旅に出る理由だった。
世界へと旅立つにあたってぼくは旅ブログを作成した。旅の詳細な記録や、自分が旅で思考したことなどを表現する場が欲しかったからだ。しかしぼくはそのブログを「旅ブログ」と最初から決めてしまっていたので、旅にまつわること以外は書くことができないという意味で、表現を制限されることに違和感を覚え始めていた。
ふとしたことからぼくは間違ってもうひとつのブログを作成してしまった。本当に自分の盛大な勘違いによって間抜けに作成されてしまったブログだったが、せっかく作ってしまったのだからもはやこのブログをきちんと活用しようと思い、そのブログでは「〜は本当か?」というテーマで、世の中で「正しい」「常識」「普通」と言われていることが本当に正しいのかどうかをゼロから必死に自分で考え直すという思想ブログとして更新を続けた。
思想ブログなのだから旅ブログと違って、旅というテーマの制限に縛られることがなく、自由な感性を働かせて様々な物事について記事を書き綴ることができた。しかし旅ブログでも思想ブログでも、ぼくは自分が同性愛者(ゲイ)であることを隠していた。
・世界を彷徨う旅人は、男にも女にも属さない
ゲイであるということは、自分にとって全く重要ではなかった。それは自分の一部ではあるけれど全てではなく、そのような性の特殊性にアイデンティティを求めなけられば自分の存在を支えられないというほど、一面的な生き方をしてきたわけではなかった。人間はもっとたくさんの要素を持った立体的、多面的な存在なのだから、その一面だけをやたらと主張してバランスの壊れた存在感を放つよりは、自分自身のたったひとつの一面を排除して創造を続けた方が、普遍的な価値を供給できると感じていた。
旅人になってからというもの、さらにぼくは自分の性別に対して関心がなくなった。性別なんてどうでもいいことではないか。世界を旅していれば、どこの国の人なのか、どんな民族に属しているのか、どんな言語を使っているのか、どんな文字を用いているのか、どんな宗教を信仰しているのかなど、自分を分類する手段は無限にあり、性別はその中の分かり切ったかのようなひとつに過ぎなかった。
異国における性的な出会いも求めていなかったし、素敵な人を性的に素敵だと感じることもなかった。ぼくは旅人になったことにより、自分自身の透明な魂を受け入れていた。それはまさに祖国から離れて彷徨い続ける旅人が自分の祖国のとうに名前も忘れてしまったかのように、自分を縛り付けていた性別から解き放たれて、性別に属することを終わって、もっと広大な美しい海原へと解き放たれたような自由な感覚だった。決して何かを喪失したとか、悲しいという感覚ではなかった。
まさに中島みゆきが「旅人のうた」で語っているように、旅人は、男も女も超越し、何者でもない者になりゆくのだった。
・ぼくがゲイであることを語ることなしにたどり着けない真理もある
しかし旅や人生を通してぼくが思想を深めるとともに、自分の根源にまで旅立って自分の正体を見つめることを通して世界を見破ろうと決意したときに、ぼくは自分がゲイであるという事実に突き当たらざるを得なくなった。それは誰かに恋したことや、人を愛したという経験を通してでないと、語れない結論がたくさんあると気づいたからだった。愛なしに世界の真理や、人生の悟りを語ることはできない。
けれどぼくの旅ブログでも、思想ブログでも、ぼくがゲイであるということは隠されていた。仕方なくぼくがゲイであるという前提を抜きにして記事を書こうとしても、何か大切な核心が抜け落ちてしまっている抽象画のような風景になってしまうのだった。ぼくはそれはそれでもいいと満足していた。すべての正体を明かした創造なんてつまらない。何かを欠落させて、何かを明かさないままで、これはどういう意味かを一生かけて考えられるような余白のある創造の方が、具体的ですぐに答えが出てしまうような野暮な作品よりも素晴らしいものだとぼく自身感じるからだ。
けれどそれとは別にぼくはもっと肉体的な記事も書きたくなった。自分自身を何ひとつ隠していない裸体のような文章。隠していたからこそ抜け落ちてしまった抽象的な空白を、埋めるかのように進められていく創造の行為。恥ずかしいことも、憎らしかったことも、無様に失敗したことも、ありのまま包み隠さず語りかけられるような肉薄できる存在の聖域。抽象的な創造にしかできない役割があるのなら、肉体的な創造にしか成し遂げられない救済もあるはずだった。ぼくは旅人となり、何者でもない者となり、透明になったことを通り越して、また肉体的な存在へと回帰する。
・ぼくがゲイとして担った孤独をここにひとつ落としていこう
ゲイとして正直に肉体的な文章を書くにあたって、ぼくは自分の根源を形成してきた悲しみの出来事を書きたかった。明るいことや楽しいことや性的なことや朗らかなことならば、他をさがせばいくらでもあるだろう。けれどぼくがゲイとして人を好きになって、どうしようもなく孤独や絶望を抱えてしまった時に、誰もこの孤独や絶望を消せないと分かっていたけれど、かろうじて魂が求めていたのは、同じように苦しんでいる誰かの言葉だった。抜け出せない暗闇の中を、自分の運命に自分が根源から否定されそうになりながらも、彷徨って救いを求めたのは、同じような誰かの嘆きだった。
ゲイとしてノンケの人を好きになって、叶わない恋や未来に絶望して、あの頃のぼくのような悲しい定めを背負いながらも懸命に生きている魂たちが、どのような世に変わっても一定数いるに違いない。あの頃のぼくがインターネットの中で孤独な魂を求めたように、今でも誰かが同じ孤独を求めているのなら、それに突き当たるような孤独をひとつでも増やしたい。見知らぬ誰かの悲しみも孤独も絶望も、何ひとつ代わりに担うことはできなくても、共鳴する魂をひとつ電子空間の中に落としておけば、その共鳴によって救われる魂があるのかもしれない。
隠しているからこそ創造できる美しい詩もあれば、隠していないからこそ出来上がる無様で剥き出しの救いもある。誰に届くのか宛てはなくても、ぼくは裸体の言葉をここから解き放ち続ける。いつかささやかな波となって、誰かの傷を揺らすことを信じて。