ぼくには自らの魂を救済する使命があり、労働という下らないまやかしに巻き込まれている暇はない

 

ぼくはぼくを幸せにするために生まれて来たんだ。

ぼくには自らの魂を救済する使命があり、労働という下らないまやかしに巻き込まれている暇はない

・人間は労働するために生まれて来たというのは本当か?

人間は労働すべき生き物だと考えられ、労働しない者はことごとく見下される傾向にすらあることは、人の世を渡っている人ならば誰でも察知できる感覚だろう。しかしそもそも労働とは何だろうか。なぜ労働という行為を行わなければ、人間として扱ってもらえないのだろうか。

この世には様々な種類の労働が存在している。その中には給料の高いものから低いもの、社会的地位の高いものから低いものまで実に多様性に富んでいるのだろう。しかし全ての労働に横たわる普遍的な共通点を見出すとしたなばら、労働とは他人の役に立つことではないだろうか。

他人が求め、他人がしてほしいと願い、他人のためになる労働という行為を行うことで、その代償として給料というお金が与えらえる。そのお金を使って人は、人間らしい衣食住を満たしたり、自分の趣味を楽しんだり、蓄えて将来に備えようとする。つまり労働とは他人のためになる行為をすることが、自分の生活の糧になってゆくという仕組みだ。

人間は労働すべき生き物だと考えられている。人間は20歳くらい〜60歳くらいまでは労働する生き物だと言っても違和感を覚える者は少ないだろう。また0歳〜20歳くらいまでも幼稚園や小学校、中学、高校、大学と勉強に励み、知識を身につけたり適切な人格形成を行うなど、労働の準備段階であると言うことができる。勉強を頑張るのはいい大学に入り、いい会社に就職し、高い年収をもらうためだという典型的な固定観念が人の世には存在しているのを踏まえると、0歳〜20歳までですら労働の準備期間であり、0歳〜60歳までまとめ上げて人間は労働という行為に縛られていると見なすこともできる。

すなわち人間は人生の中で最も若く、美しく、なんでもできる、無限の可能性を秘めた大切な期間を、すべて労働に支配されていると言っても過言ではない。人間という生き物は、まさに労働するために生まれて来たようなものだ。しかし本当に人間は、労働するために生まれて来たのだろうか。労働し、金を稼ぎ、それを消費し、労働と消費の輪廻を描くことでただ何となく生命を消耗させることが、この世に生まれついた目的だろうか。

 

・人生で最も若くて、美しくて、何でもできる尊い時代は月30万円の価値しかないのか?

ぼくは医者として労働する前から、労働というものに多大な違和感を覚えていた。それはつまり、人生で最も若くて、美しくて、何でもできる尊い時代のほとんどを自分のためではなく、他人のために行う労働という行為によって占められているからだ。つまり人生とは、自分のために使える時間では決してなかったのだ!人生で最も若くて、美しくて、何でもできる尊い時代のほとんどを労働に占拠されるというのなら、それはすなわち人間というものは、他人の役に立つために生きていくということを意味する。

この思考はぼくの中では衝撃的だった。ぼくは自分の人生の大切な時間を、ぼく自身のために使うことができると信じていたからだ。自分の人生の時間なのだから、自分のために自由に使えて当たり前ではないかと考えていたのだった。自分の人生は自分のために使って当然だというぼくの思考は、普通に考えれば間違いのない真っ当な意見のようにも思えるが、しかし実際の人間たちの人生はこのようには稼働していない。ほとんどの人間は労働という行為にそのほとんどの人生の時間を巻き込まれて行く。つまり人間は自分のために人生を生きられているというのは全くの幻想で、実は他人のために生きるように労働システムによって導かれているのだ!

他人のためになる労働が自分のためである給料へと変換されるのだから、結局は自分のためになっていていいじゃないかという意見も出て来そうだが、ぼくはこの給料というシステムにもとても疑問を抱いている。日本人は普通1日8時間、週5日働いて月30万円くらいもらうのだろうか。しかし果たしてこの人生における二度と戻ってこない1日8時間、周5日間というものすごく貴重な若くて尊い時間が、果たして月に30万円の価値で済むのだろうか。ぼくには到底そうは思えない。生命は取り返しがつかない資産なのだ。どんなに後から後悔しても、過ぎ去った若さを取り戻すことはできない。

そう考えれば人生で最も若くて、美しくて、何でもできる尊い時代のほとんどを費やして、月に30万円だなんて安すぎではないだろか。ぼくの感覚では1億、2億でもまだ安いと感じられる。それくらい生命の時間というものは、どんなに取り戻したいと願っても二度とは手に入らない貴重すぎる宝物なのだ。それを自分のためではなく我慢して他人に使って労働したとして月に30万だなんて、どう考えても洗脳され支配され騙されているとしか考えられない。誰もこれを疑問に思わないのだろうか。

 

・労働は必ず見返りを求めている点で決して愛の行為ではない

自分の人生の時間を自分のためだけに使いたいなんて馬鹿げている、思いやりはないのか、自分の人生を労働という他人のためになる行為に使えるなんて素晴らしいではないかという意見も飛んで来そうだ。しかし本当にそうだろうか。自分の人生を自分のために使いたいと考えるのは非難されるべき悪しき思考で、自分の人生を他人のために使いたいと願う生き様こそが、賞賛されるべき人間としてあるべき姿だろうか。

確かに他人の役に立ちたいと願う気持ちは素晴らしいものだ。損得勘定もなく、見返りを求めず、ただひたすらに与えたいと思う人の心は「愛」と呼ばれ最も尊いものだとされており、ロシア人作家トルストイも人間は幸福に到達するための唯一の道は、愛だけだと主張している。それでは労働という他人のためになる行為は、果たして愛と呼べるのだろうか。

ぼくは労働は決して愛とは呼べないと断言できる。それは全ての労働は、給料という見返りを絶対的に求めることによって成り立っているからだ。給料も出ないのに働くという人が、果たしてこの世にいるだろうか。労働は他人の役に立つ行為だから素晴らしいと賞賛される傾向にあるが、そこには給料という見返りを求めてこそ他人の役に立っているという絶対的な事実がある限り、労働は愛からはるか遠くに位置する運命にあるだろう。ぼくが労働という精神に違和感を抱き続けているのはこれゆえである。労働において他人の役に立ちたいという人々の様子は、何か白々しいのだ。

 

・ほとんどの労働は安定して生きて行くための強制労働

人々は就職活動などを行い、自ら進んで労働したがる生物であるように見受けられるが、実際のところ本当に労働したい人なんてどれくらいいるのだろうか。彼らはただ生きて行くのにお金が必要なものだから、なんとか人間社会という労働のステージに食い込もうとして、必死に他人の役に立ちたいとか他人を笑顔にしたいとか面接でアピールしているだけではないだろうか。

生きていくためのお金が必要だから、必然的に労働へと組み込まれていく社会システムになっているというのなら、それはもはや強制労働ではないだろうか。誰もが自由に、自ら選択し、明るく進んで労働しているように見えている根をたどっていけば、全ては強制労働という結論に行き着くのではないだろうか。

ぼくたちはせっかくこの世に生まれて来たのに、自分のために自分の人生の大切な時間を使うことを許されず、安定し安心して生きて行くために強制労働へと組み込まれ、操られ、自分の生命の時間を自分ではなく他人のために使うように促され、その代償として生命の時間の価値から考えればほんのわずかな給料を渡されて、土日だけは自らを慰めるように自分のために生き、そしてまた労働と消費の輪廻へと組み込まれて行く。気づけば老人となり、退職し、自由な時間を手に入れるが、若く、健康で、美しく、なんでもできた時代はもはや戻ってこない。美しき日々は月30万円で毎月買い取られたのだ。安定して生きられて嬉しいでしょう、老後のために貯金しないと怖いでしょうとそそのかされて、何億支払われても足りないほどに尊い日々は、月30万円で売られてしまう。

 

・ぼくたちは自らの幸福を犠牲にして他人や社会の利益のために生きるべきだというのは本当か?

ぼくたちは、騙されていないと言い切れるだろうか。ぼくたちは、欺かれていないと胸を張れるだろうか。みんなが労働しているから、みんなと同じように生きていれば安心だろうか。みんなが愚かしく騙されて、自分さえ巻き込まれているということは決してないと、どのように知れるだろうか。

ぼくたちは、自分のために生きてはいけないのだろうか。自分のために生きることは醜いことだろうか。他人のために生きることは美しいことだろうか。それはぼくたちを部品にし、人間集団の利益になるために仕向けられた洗脳ではないだろうか。ぼくたち個人の幸福を犠牲にし、人間社会の利益を追求するために仕組まれた罠ではないだろうか。

ぼくたちは部品じゃない。ぼくたちは生まれた時には誰もが「全体」だった。全体として美しく世界へと立ち向かい、ただただ自らの幸福のために飛翔する翼を持ち合わせていたはずだ。ぼくたちは全体ではなく部品なのだと、そう思い込むようにいつしか巧みに仕組まれた洗脳が、骨の髄まで染み渡って抜け出せない。

ぼくたちは他人のために生まれて来たのだろか。ぼくたちは人間集団のために生まれて来たのだろうか。ぼくたちは人間社会の利益のために生まれて来たのだろうか。そのためには、自分の幸福すら踏みにじられることを厭わないだろうか。

違う、ぼくたちは自分の願いを叶えるために生まれて来た。ぼくたちは自分の使命を全うするために生まれて来た。ぼくたちは、全体として生きて行くために生まれて来た。ぼくたちは、自らを幸せにするために生まれて来た。

ぼくは、ぼくを幸せにするために生まれて来たんだ。

 

・同性愛者として生まれたぼくは、この人生で幸せにはなれないと悲しく覚悟した

ぼくは高校2年生の初恋で、自分が男を好きになる男、同性愛者だと気付いた時に、この人生では決して幸せになれないのだと悟った。何気ない生活の中で、人を好きになって、付き合って、結婚して、愛し合って、可愛い赤ちゃんが生まれて、そして年老いて…思考しなくても思い浮かぶ、ほんのささやかな幸せすら自分の手では届かないのだと感じた。

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ぼくが人を好きになっても、きっとその人は女の人が好きだろう。ぼくは一生、好きな人と両思いになることなんてないのだろう。ぼくが男を好きになったら、お父さんもお母さんも悲しむだろう。ぼくが人を好きになることで、大切な人々の全てが傷つくだろう。そんな思いを巡らせながら、自分が生まれて来た意味や、生きて行く意味さえ失ったような気がした。ぼくの魂はさまよい、天からは、終わりなき悲しみと絶望と孤独が降り注いでいた。それは死ぬまで、止まないだろうと思った。幸せにはなれないけれど必死に生きていこうと、幼いぼくの背中は覚悟した。

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大学生になって、奇跡のような出来事が訪れた。ぼくは同級生の好きな人に、好きだと言ってもらえるようになった。彼は同性愛者じゃないのに、ぼくに毎日好きだと言ってくれた。抱きしめてくれた。髪を撫でてくれた。キスしてくれた。ぼくは幸せになれないとわかっていても、諦めないでこれまで生きて来てよかったと感じた。ぼくは生まれて来てもよかったんだ、ぼくは生きていてもよかったんだ、ぼくだって幸せになれるかもしれないんだと、ぼくは神様に感謝した。ぼくに同性愛という運命を埋め込んだのも神様だけど、その代わりに神様は、ぼくのために彼を用意してくれたんだと感じた。

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けれど神様は、ぼくに彼を与えて、ぼくだって幸せになれるかもしれないと信じ始めたその途端に、ぼくから彼を奪っていった。それは彼の裏切りという形をとっていた。それは彼の偽りという形をとっていた。それは彼が自分だけ幸せになろうとしてぼくを突き放した結果だった。ぼくは彼と出会わなかった頃よりももっと濃厚な悲しみと、孤独と、絶望を容赦なく天から受け止め続け、やがて息ができなくなって、ぼくの魂は死んだ。

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・ぼくには自らの魂の救済をする使命があり、労働という下らないまやかしに巻き込まれている暇はない

けれどぼくの肉体は生き続けていた。ぼくの肉体はあと50年は生きるのだろう。死んだ魂を背負いながら、血を流す心を抱えながら、なんのためにぼくは生きながらえなければならないのだろう。

いつだって覚えている言葉がある。ぼくはぼくを幸せにするために生まれて来たんだ。

もはや他人のためになど生きている時間はない。もはや世の中のことなどふり返っている余裕もない。ぼくはぼくのために生きて行くんだ。ぼくはぼくを幸せにするために生まれて来たんだ。そしてそうやって生きることは、きっと最も美しいことなんだ。愚かな人の世の洗脳に、付き合っているような暇はない。

神様に殺された魂を、ぼくはいつまでも抱きしめている。ただ幸せになりたかった。ただ生まれて来てよかったと言いたかった。ただ生きていてもいいんだと許されたかった。ぼくの魂を、ぼくは永遠に抱きしめている。

ぼくにとってたったひとつの大切なことは、ぼくの魂を救い出すことだ。幸せになれなくてもいいから必死で生きようと覚悟した少年の背中から、幸せになれるかもしれないと惑わされてことごとく滅ぼされたその日まで、全てを含んだ魂の器の美しさをぼくだけが知っている。

ぼくが君を、幸せにしてみせるよ。何があってもぼくは、君を護り抜くよ。だから恐れなくていい。怯えなくていい。魂を救う道を、きっと見つけ出せるだろう。鍵は世界のどこかに、ささやかに落ちているだろう。魂は死んでも、必ずよみがえるよ。そしてもっと美しい魂となって、幸せを見つけ出そう。神様に殺される前よりももっと清らかな魂を、滅ぼされたからこそなお一層美しい純粋な輝きを、ぼくはぼくに見つけ出すと誓うよ。

それこそが、ぼくが旅に出る本当の理由。

 

・大学時代のぼくの2番目の恋について

大学時代、ぼくは片思いしているノンケの友達に膝枕されるのが好きだった

大学時代、片思いしているノンケの親友の幸せはぼくの地獄となることを知った

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大学時代、ノンケの彼とゲイのぼくは会うたびにキスするようになった

ノンケの親友と愛し合いながら、彼は同性愛と異性愛の狭間で不安定にもがき苦しんでいた

ノンケの彼とゲイのぼくは、どんなに好きだと抱きしめ合っても恋人同士にはなれなかった

ゲイのぼくとノンケの彼は、お互いの部屋の合鍵を交換して恋人のように逢瀬を重ねた

言われるはずのない同性愛の人生の中で、ノンケの彼はゲイのぼくに「愛してる」と告げた

ノンケの親友とゲイのぼくは、同じ果実を男同士で触り合って同じ快楽と幸福を感じた

大学時代ノンケへの片思いを通して、ゲイのぼくは叶うはずがない運命の恋でさえ叶う瞬間があることを知った

ノンケの彼はぼくを好きだと抱きしめながらも、女の肉体を探し求め続けた

ノンケの彼には、ぼくとの同性愛的体験を受け入れる覚悟と誠実さがなかった

ノンケの彼との恋愛がつらく苦しすぎて、ぼくは通常の学生生活が営めなくなっていった

大学の留年を機に、ゲイのぼくとノンケの彼は少しずつ離れていった

ノンケの親友に失恋!ノンケの彼はゲイのぼくを裏切って彼女を作った

ノンケの彼と別れて、彼の部屋の明かりを見るだけでぼくの心は泣いていた

別れたくても別れられない…大好きなノンケの彼に呼ばれると、ぼくはすぐに彼の元へ舞い戻った

裏切られ続けたぼくは狂人となって、彼女と過ごすノンケの彼の部屋を訪ねることさえ恐れなかった

同性愛者として生まれた水色の少年は、この人生で幸せにはなれないのだと悲しい覚悟をした

 

・ぼくの高校時代の初恋について

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