性欲は人間を惑わす煩悩なのか、それとも直感を指し示す神聖で純粋な道標なのか

 

性欲は人間を惑わす煩悩なのか、それとも直感を指し示す神聖で純粋な道標なのか

・性欲は子孫を残し人類を繁栄させる原動力
・日本では生殖器と性欲は神様として祀られている
・性欲は人間を惑わす煩悩だと見なす宗教的観念
・ぼくは性欲という純粋な直感の声を信仰する
・性欲に導かれて結ばれた縁はぼくを破滅に追い込んだ
・性欲は人間を惑わす煩悩なのか、それとも直感を指し示す神聖で純粋な道標なのか
・性欲という根源の根源

・性欲は子孫を残し人類を繁栄させる原動力

性欲とは全ての人間に備え付けられた根源的なパワーである。ぼくたちの成熟した肉体と精神は性欲によって大きく支配され、もはやその支配から逃れられる人はいない。性欲が全ての人間をあまねく支配しているということは、性欲が人間にとって必要不可欠な重要性をはらんでいることを示唆している。その重要性とは何か、人間たちの営みを眺めていればその答えを導き出すのは困難なことではない。人間はまさに性欲を起爆剤として、子孫を残し種の繁栄を成し遂げているのだ。

あらゆる人間に性欲という強大で根源的なエネルギーが宿っているからこそ、人間たちは自分でも制御できないほどに激しく発情し、暇さえあれば生殖できる相手を求めて世の中を彷徨い、適当な相手を見つけては生殖を繰り返し、やがて新しい子孫を生み出し、人類の繁栄は現在に至るまで継続されてきた。性欲があるからこそ、ぼくたちはこの世に生を受けたわけだし、これからもたくさんの生命を生み出し続ける原動力となるだろう。その観点から言えば性欲は人間にとって母もしくは神のような存在であり、性欲を神様として祀るくらいしても罰は当たらないだろうと思われるほどに、人類の役に立っていると断言できる。

 

 

・日本では生殖器と性欲は神様として祀られている

実際に日本各地には、密やかに生殖器が神様として祀られている神社が数多く存在した。生殖器が男女共に対として祀られている場合もあれば、男性生殖器だけが堂々と祀られている神社も多かった。感覚としては、女性生殖器よりも男性生殖器の方が遥かに多く祀られていた印象だ。やはり外見としては男性生殖器の方が存在感や迫力があるし、機能的にも大きくなったり小さくなったりして変幻自在に形を変えるし、さまざまな種類の液体を派手に放出するという点においても、男性生殖器の方が女性生殖器よりも神様として祀らせたいと人間に思わせる魅力に溢れているということだろうか。祀られていた男性生殖器はもれなく天を貫くように堂々と勃起していた。やはり力強く勃起する様子は人類繁栄を如実に表現しているようで祀り甲斐があるということだろうか。

 

・性欲は人間を惑わす煩悩だと見なす宗教的観念

直感的な本能や、人類が性欲によって繁栄しているという紛れもない事実を素直に受け入れ、生殖器を神様として祀っている日本人のような純粋な民族がいる一方で、性欲を人間にとってふさわしくないものとして否定している宗教も世界には少なくないようだ。仏教では性欲は煩悩のひとつとされ、性欲に関する戒律が数多く存在するし、小乗仏教の栄える東南アジアでは女性が僧侶に触れることさえ許されないという。キリスト教やイスラム教でも不適切な性欲は罪とされ、結婚していない者との生殖や快楽のためだけになされる交わりは否定された。以前イスラム教圏のイランを旅していた時に、イラン人の青年が「大人たちは結婚するまで生殖してはいけないと言ってくるが、それはとても馬鹿馬鹿しい教えだ」と不平不満を言っていたことが思い出される。またイスラム教の国々の中では同性愛が原因で死刑になることもあるという。

確かに性欲が人間に繁栄と快楽をもたらす一方で、性欲によって心が迷ったり、予期せぬトラブルが起こったり、憎しみや嫌悪が発生することも少なくないようだ。性欲はこの世を生き抜くぼくたちにとって、心を惑わす悪しき煩悩に過ぎないのだろうか。

 

・ぼくは性欲という純粋な直感の声を信仰する

ぼくは自らの直感や感性を信じている。自分の心の根源に耳を澄ませ、純粋な直感の声にしたがって歩みを進めたならば、自分の魂がたどり着くべきふさわしい場所へと導いてくれるだろうというのがぼくの考え方だ。だから自らの根源から湧き起こる性欲や発情に関しても、常に肯定的に捉えている。こんなにも本能的で透明な感性が間違っているはずがないと、信じられてならないのだ。世の中や他人のことなどふり返りもせず、それらの雑音を遮断して、ただ自らの純粋な直感に焦点を当てながら、それを確固たる道標に生きていくということが、ぼくのスタイルだ。けれどそれが正しいのかどうかはまだわからない。実際にそれで道が開けることもあれば、魂を滅ぼすほどの絶望を引き受ける結果になったこともあるからだ。

 

 

・性欲に導かれて結ばれた縁はぼくを破滅に追い込んだ

大学生の頃、ゲイのぼくは同級生のノンケの男の子を好きになった。ぼくはゲイだったので若く激しい性欲が、彼を求める原動力となったのだろう。しかしノンケの彼の若く激しい性欲は、当然ぼくの方を向いていなかった。彼は常に女の肉体を求めて心が彷徨い、早く童貞を捨てようと必死だった。ぼくの性欲と彼の性欲はねじれの位置にあり、決して交わり合うことのない運命であるかのように思えた。

しかし不思議なことに彼はぼくを好きだと言って抱きしめてくれるようになった。優しくキスをしてくれ、やがてお互いの生殖器を触り合って同じ快楽を共有した。交わり合うはずのない若く激しいふたつの性欲が共鳴し、触られて発情している瞳で見つめ合うことがお互いをさらに大きな発情へと導いた。彼の性欲と発情を肌で感じながら、この世にあるはずもない幻が目の前に立ちはだかっているような気がした。あるはずもない性欲、あるはずもない発情が、実際にぼくの目の前で展開されていた。

両思いに!大好きなノンケの親友に告白したら毎日「好きだよ」と抱きしめてくれるようになった

大学時代、ノンケの彼とゲイのぼくは会うたびにキスするようになった

ノンケの親友とゲイのぼくは、同じ果実を男同士で触り合って同じ快楽と幸福を感じた

けれど彼の性欲はすぐに本来の姿を取り戻していった。すなわち彼は迷うこともなくまた女の肉体を求め始め、そして発情したぼくだけが置き去りにされた。本来ならば味わうはずのない深い悲しみを、ぼくはこの時引き受けなければならなかった。ゲイの男の子がノンケの男の子に愛されなかった、ただそれだけの当たり前のことだったのに、一度尊い愛を交わし合ってから、その上で愛されなくなることによって、ノンケの男の子に愛されなかったという当たり前の絶望は、本来の姿の何百倍も残酷な衝撃を生み出してぼくの心を破壊し、そしてもう二度と起き上がれなくさせた。

同性愛者として生まれた水色の少年は、この人生で幸せにはなれないのだと悲しい覚悟をした

 

・性欲は人間を惑わす煩悩なのか、それとも直感を指し示す神聖で純粋な道標なのか

彼を好きになったことを後悔したことはない。なぜならぼくは自らの性欲という最も純粋で、最も透明で、最も美しい直感に従って生き抜いたからだ。自らの美しい直感に従って突き進むとき、生命と運命を貫くとき、その結果どんな甘美が訪れようとも、どんな絶望が待ち受けようとも、あらゆる結果を等しき恵みとして、ぼくの魂は享受するだろう。

けれど一方でぼくの魂は粉々に打ち砕かれた。もう二度と息ができないようにされた。ぼくは自分自身をきちんと護ってやれたのだろうか。大切な自分自身に慈しみを注げたのだろうか。

ぼくたちは仏教の言うように性欲という悪しき煩悩によって結びつけられたから、お互いに傷付き合いながら離れ離れになってしまったのだろか。それとも性欲という純粋で神聖な直感に素直に従うことができたからこそ、一瞬であっても、本来この世に立ち現れるはずもない愛に触れることができたのだろうか。

 

 

・性欲という根源の根源

性欲がなくても、ぼくはあなたを愛しただろう。性欲がなくても、あなたはぼくを見つけただろう。ぼくたちを結びつけたものは、本当に性欲と発情だったのだろうか。もしかしたらぼくたちはもっと違う何かによって、縁を結ばれていたのだろうか。

性欲という根源的な炎の底に、根源を支えている光が眠っている。それは根源とは対極の位置にある、天空を浮遊するような魂の揺らめき。ぼくたちは確かに性欲と発情を共有した。けれどそれはきっと重要なことではなかった。本当に大切なことは、魂が呼び合っていることだった。根源の根源から、ぼくはあなたを呼んでいた。根源の根源から、あなたはぼくを見つけ出した。

ぼくたちが肉体を持つ限り、性欲と発情から解放されることはないだろう。けれどやがて肉体が滅びて魂だけになったとき、あなたはぼくを必要とするだろう。そしてぼくはあなたを迎えにいくだろう。

天空の炎と根源の炎

魂の迎え

 

 

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