旧エヴァの究極的あらすじは仏教的厭世観の否定と、儒教的東アジア的な人生への肯定であふれていた

 

エヴァンゲリオンって複雑すぎる!!!!!

旧エヴァの究極的あらすじは仏教的厭世観の否定と、儒教的東アジア的な人生への肯定であふれていた

・エヴァンゲリオンは感動的だったけれど複雑怪奇だった!
・多重構造で隠し事の多い物語を理解するためにはまず主軸を把握することが重要だ
・エヴァンゲリオンの物語の主軸をものすごく簡潔にまとめてみた
・物語の主軸を基礎として、複雑な予備知識の理解を付け加えていくべきだ
・仏教的悟りを拒絶して、現世に希望を見出す儒教的・東アジア的感性の到来

・エヴァンゲリオンは感動的だったけれど複雑怪奇だった!

エヴァンゲリオンは1995年〜1996年にかけて放送されたアニメで、大人気で社会現象にまでなったらしい。にもかかわらずぼくは一度も見たこともないどころか、学校でも友達の間で噂になっているのを聞いたことすらなかった。これってぼくの周囲だけだろうか。本当に社会現象になるくらいほどの人気だったのだろうかととても不思議な気持ちだ。

そんなに面白いのなら見てみようということで、最近になって第1話〜第26話まで全話通して鑑賞した。実は大学時代にも一度見てみようと思ったことがあったのだが、第1話でなんか巨大ロボットが暴れているシーンを見て、あぁなんかつまんなそう…と思ってすぐに見るのをやめてしまったのだった。今回は根気よく、面白くなさそうでも我慢して見続けることにした。

すると驚くことにエヴァンゲリオンは、全然ロボットアニメではなかった!むしろ人間の精神世界を描いた物語で、隠されることのないむき出しの深層心理的世界観が格好いいロボットの活躍と秘密組織の壮大な計画と絡まり合うという、絶妙なバランスの面白さを維持していた。最終回周辺はもはやロボット関係なく精神の救済だけを求めており、ぼくは感動して最後は泣いてしまった!エヴァンゲリオンの最終回は究極的に言えば、中島みゆきの名曲「誕生」のような物語だった。ここにいてもいいよ、生きていてもいいよ、生まれたことを祝福するよというような、どうしようもなく運命的に植え付けられた呪いの除去と、健やかな心の復活に焦点が当てられていた。

しかしこの最終回に違和感がないわけではなかった。というのも最後の2話(第25話、第26話)は全部主人公の少年達の精神の浄化に焦点が当てられているが、その前の回(第24話)までずっと続いていたロボットアニメのその後が全く描かれていなかったのだ!え、あのロボット大戦の続きはどうなったの…???と疑問に思わずにはいられなかった。昔のことだからよくわからないが、多分物語の主軸を描くだけの時間が全く足りなくて、急遽最終回は主人公の精神の浄化へと方向転換したのではないだろうか。

調べてみると第24話からの直接の物語の続きは、何年か経って映画として本当の最終回が描かれたらしい。それは「THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に」という映画だった。この映画こそまさに物語の主軸に沿った本物の最終回であり、ものすごく壮大なテーマと描写にまたしても感動してしまった!

しかし感動したことと、物語を全て理解できたということは別問題だった。エヴァンゲリオンは思ったよりも複雑で、多重構造になっており、とても1回見ただけでは全く理解できない場面がいくつもあった。アニメの中で様々な聞きなれない単語が飛び交うが、そもそもちゃんと説明されていないものが多すぎると思われた。おそらくディレクションとして敢えてあまりわかりやすく説明しないような指向になっているのだろう。

エヴァンゲリオンはものすごく感動するけれど意味がわからない部分が多いという珍しいアニメだった。結局セカンドインパクトって何だったの?ロンギヌスの槍って?アダムって?リリスって?リリンって?綾波レイとは?エヴァとは?アンチATフィールドとは?と見終わった後に徐々に頭の中が「???」で満たされていくのだった。

 

 

・多重構造で隠し事の多い物語を理解するためにはまず主軸を把握することが重要だ

複雑に隠し事が仕組まれているエヴァンゲリオンのような作品は、理解しようと努力して何度も何度も見返してしまうような面白さがある。1回見てすぐにわかってしまう作品よりも、こんな風にわからなさすぎて何回も見返してしまう味わい深い作品の方がぼくは好きだ。中島みゆきの夜会映像作品はまさにその好例だし、アニメだと宮崎駿の晩年の作品などは意味不明で何度も見てしまう面白さがある。ものすごく奥深い設定を敢えてきちんと説明しないことにより、作品としての情緒が増していくのだ。

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このように多重構造になっており敢えて説明がなされていない作品は、まず細かい設定をいちいち気にするよりも、物語の本筋をしっかりととらえることがまず重要だろう。詳細を気にしていると説明が足りなすぎてわからなさすぎてイライラしてしまうので、まずは軽い気持ちで本当に大切な物語の太い軸だけを見極めるのだ。国語の問題でいうと、ダラダラと長い文章の最も重要な「主語+述語」だけをしっかりと見極めることに似ている。

 

・エヴァンゲリオンの物語の主軸をものすごく簡潔にまとめてみた

この物語の本筋を掴むというだけならば、いくら複雑怪奇なエヴァンゲリオンであろうと割と簡単だと思われる。作品中には様々な組織の陰謀や、多様な人々の思惑や、意味不明なカタカナ言葉が羅列され困惑するけれど、そういうものは一旦無視して、物語にとって本当に大切な箇所だけを適切にとらえよう。エヴァンゲリオンの物語全体をめちゃくちゃ簡潔に短くまとめると、次のようになるとぼくには感じられた。

人間はお互いを理解し合うことができないまま、憎み合い、傷つけ合い、殺し合い、同じ過ちを繰り返し続けている。もはやこれ以上の進歩は期待できず、人類は行き詰まりを感じている。そこで一旦あらゆる生命をリセットしようという計画が持ち上がる。それが人類補完計画だった。人間は意識の中であらゆるものに境界線を設定し、その境界線ゆえに自ら苦しみを生み出し続けている。このあらゆる人間のあらゆる境界線を徹底的に破壊して、自分も他人もない、全てがひとつになった世界へと帰そうとする。人類補完計画はほとんど成し遂げられたが、このまま全てがひとつになった世界を突き進み新しく再生を果たすか、以前の境界線のある苦しみに満たされた世界にもう一度戻るか、その選択は神の子としての主人公・碇シンジに委ねられることになる。シンジは人間に希望を見出し、苦しみに満たされていようとも以前の世界へと戻ることを選択する。そして世界は境界線を持つ世界へと再び戻り、人類補完計画は失敗に終わった。

 

 

・物語の主軸を基礎として、複雑な予備知識の理解を付け加えていくべきだ

このような物語を主軸として、ここに複雑な名称が付けられたり、様々な組織や人間模様が絡まったり、意味不明な現象や要素が加わったりして、多重構造の複雑さを演出されるものと思われる。例えば重要なキーワードである「境界線」は、エヴァンゲリオンの世界では「ATフィールド」と呼ばれている。さらにそのATフィールドを破壊するパワーを「アンチATフィールド」と呼ぶのである。ATフィールドは生きようとする根源的な力・リビドーと結び付けられ、逆にアンチATフィールドは死に向かおうとする力・デストルドーと強く結び付けられるという。そしてこのデストルドーは「ロンギヌスの槍」そのものであり、原始へと帰ろうとする力つまり「人類補完計画」までをも示唆するものとなる。ATフィールドはどんな人でも心の中に持っているのに対し、アンチATフィールドはごく限られた神に近い存在しか持つことができない。アンチATフィールドは人類をLCL(原始の海の成分を持つ液体)へと変えてしまい、人々の境界線を融解させひとつの生命にまとめ上げる人類補完計画の要となる。

このように意味不明で複雑な言葉や多重構造を大変でもひとつひとつ読み解くことで、作品に持つ印象が少しずつ深く変わっていくのかもしれない。

 

 

・仏教的悟りを拒絶して、現世に希望を見出す儒教的・東アジア的感性の到来

この世は苦しみに満たされているという厭世観は、まさに仏教的であり、あらゆる境界線を融解させるというのも、仏教的もしくは禅の悟りに近いものを感じさせる。ただ仏教や禅の悟りは孤独に修行を積んだ後に個人的な精神にもたらされるものであるのに対して、エヴァンゲリオンの世界では闇の組織が陰謀として人類全体に適応させようとするところがポイントである。境界のない安らかな世界はまさに仏教や禅の目指す安らかな悟りの世界観であり、そこへたどり着く人類補完計画はよいことのように思われるが、最終的にはシンジはその悟りと安らぎの世界を拒絶し、苦しみに満たされた俗世へと舞い戻ることを決意する。

「ここには幸せなんてない。人と人が完全に理解し合うなんて不可能だと言ったけれど、ぼくはまだそれを確かめてない。確かめなきゃぼくの体で。一瞬だけならあの時の君とぼくみたいに心を通わせることはできる。確かめなきゃこの手がなんのためにあるのか。ぼくがなんのために生きてるのか」と言って境界線のある世界へ舞い戻るシンジは、まさに現世に希望を抱く存在としてとらえられる。この世は苦しみではなく、この世にも希望はある、この世は素晴らしいものになり得るという明るい現世観は、まさに仏教的・インド的・南アジア的ではなく、儒教的・中国的・東アジア的であると感じる。これは仏教的な悟りへの否定の物語なのだろうか。

ぼくはこの仏教的否定の感性を、高畑勲監督の名作「かぐや姫の物語」でも垣間見た記憶がある。映画の中でかぐや姫が月へと帰るとき、観音様率いる一行が彼女を迎えに来る。おじいさんやおばあさんと離れたくないので、帰りたがらないかぐや姫に向かって天女が「さあ参りましょう。清らかな月の都へお戻りになれば、そのように心ざわめくこともなく、この地の穢れも拭い去れましょう。」と諭し、かぐや姫を誘う。この地が穢れているというのは、まさに仏教的な厭世観に満ちている。中心に観音様がいる景色が、ますます仏教色を高める。

しかしかぐや姫は毅然と天女に向かい「穢れてなんかいないわ!喜びも 悲しみも この地に生きるものは みんな彩りに満ちて、とり むし けもの 草木 人の情けを…!」とこの世は穢れであるという仏教的思想を、観音様を前にして必死に拒絶する。物怖じしないその態度と、自らの意見を率直に物申すその姿勢は実に清々しく爽やかだ。この世は素晴らしい、この世は彩りに満ちている、確かに苦しみも多いけれどそれ以上に美しいものはたくさんあると、この世を肯定的にとらえることから人生を始めるという姿勢は、まさに東アジア的、儒教的な感性だろうか。そしてどんなに仏教がこの国で栄えても、仏教的・南アジア的感性は、儒教的・東アジア的感性を征服し切れないのだと、ぼくはエヴァンゲリオンとかぐや姫の物語を見て思うのだった。

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