射精は快楽であるというのは本当か? 〜必死と、怒りと、性の悟り〜

 

全ての男は、射精は快楽だと言う。

射精は快楽であるというのは本当か? 〜必死と、怒りと、性の悟り〜

・射精は全ての男子にとって快楽の最高値である

ぼくたちは生殖を快楽だと感じる。どんなに体裁を取り繕っていても、ぼくたちは生殖機を摩擦させるための肉体を持つ者を求めて彷徨うだけの単なる獣にすぎない。男にとって生殖の快楽とは、その終焉、すなわち射精の瞬間に極致に達する。徐々にこみ上げる快楽は精液の射出と共に最高値を更新し、その後は生殖器の摩擦に無関心になるように男の肉体はできている。しかし時が経てばあの快楽の最高値の瞬間が忘れられずに、もう一度あの快楽を達成したいと心から願い、いつまでもいつまでも射精できるものを求めて彷徨い続けるように男の人生はできている。

少年に精液を植え付けられることがなかったら、ぼくたちは何を求め愛しただろうか

「気持ちいいことをしよう」と囁けば、大抵の男子は射精の瞬間を夢見るだろう。それほどまでに男にとって射精の快楽は何者にも変え難い、快楽の代表格として男の人生に君臨している。気持ちいいことなんて他にもいっぱいあるだろう。スポーツをすることだって気持ちいいし、マッサージを受けることだって気持ちがいい。にもかかわらず男の精神は「気持ちいい」という言葉を聞くと、速やかに生殖や射精へと傾くようにできている。

 

 

・射精は快楽であるというのは本当か?

しかしその割には男の射精する瞬間の表情は、それほど快楽を伴っているようには見えない。全ての男子にとって「気持ちいい」の代表を務めるはずの射精なのだから、もっと本格的で純粋な混じりのない純度100%の幸福感や満足感を伴ったものすごい笑顔をしてもよさそうなものではないだろうか。しかし実際には射精の瞬間に純度100%の幸福感や満足感を醸し出す男子はほとんどいない。

表現しづらいが、みんな何かを耐え忍んでいるような苦悶の表情を浮かべている。あの表情は幸福感に満たされた笑顔というよりもむしろ、苦しみの表情、我慢の表情、耐えている表情、耐えきれない表情、どうしようもない運命的な液体が自分の体内から射出される不快感を、必死にこらえようとして生き延びようとしているような表情だ。

全ての男子は射精を快楽だと言い、まさにその感覚の虜になっているが、しかし本当にそうなのだろうか。果たして射精は快楽なのだろうか。それは後から世の中によって「快楽」という言葉や感覚を植え付けられた結果なだけで、本当はもっと別のものを感じ取っているのではないだろうか。

ぼくは初めての射精を、自分がどう感じたか覚えている。それは「不快」な感覚だった。何か得体のしれないものが自分の根源から沸き起こり、止めることがどうしてもできずに運命的に飛び散るから、その不快に必死になって耐えなければならないと感じていた。この根源的な感覚は下半身の全てを支配し、何かが射出されると同時に魂さえ飛び出してしまいそうな、まさに死をもたらすのではないかと思わんばかりの衝動だった。ぼくは射精によって死なないように、生き延びるように必死に耐え忍んでいたのだ。

このぼくの精通の感覚は、あながち間違っていないのではないかと思われる。ぼくが見る限り男子は射精の瞬間に「快楽」を表すような表情をせずに、むしろその逆の「不快」に耐え忍ぶような”必死”の表情をしているからだ。全ての男子はそれを快楽だから自分は夢中になっていると思っているが、実は迫り来る死の不快に耐え忍ぶ自分の精神に夢中になっているだけではないだろうか。

 

・不動明王が怒っている本当の理由

ぼくは不動明王という仏像が好きだ。ぼくの感性は、喜怒哀楽の中では最も怒りを美しいと感じるものであり、ぼくの根源も常に怒りに燃え盛っているような感覚にとらわれている。ぼくの根源の怒りの炎と、不動明王の怒りの炎が共鳴するような気がして、ぼくは不動明王に魅せられるのだ。

喜怒哀楽の中で、怒りが最も美しい

不動明王は、なぜあんなにも怒った憤怒の表情をしているだろうか。大抵の説明書きには、不動明王は仏教に帰依しない人々を力づくでも仏の道へと導くために、あんな風に忿怒の表情を浮かべているのだと書かれている。しかしぼくはこの説明書きにいつも納得がいかなかった。ぼくが心から崇拝する不動明王が、そんなみみっちい理由で憤怒の表情を浮かべているとは思えなかったからだ。

ぼくが不動明王の怒りに関して納得いく説明を見たのは、和歌山県高野山の美術館「霊宝館」における記載を見たときだった。高野山とは空海(弘法大師)が開いた山の中の神聖な仏教都市であり、唐の時代に空海が長安から持ち帰った「密教」が盛んに信仰されている。密教の最高仏は「大日如来」という仏様であり、不動明王はその化身だとされていることから、密教において不動明王信仰は盛んだ。したがって霊宝館にも様々な見事な不動明王像が立ち並び、その怒りの理由についても言及していた。

「不動明王がこのような表情をしているのは、必死に人々を救おうとしているからだ」という説明書きを読んだ時、ぼくの心の中でストンと納得がいった。そうなのだ。不動明王が仏教の帰依しないからといって人々をむやみやたらと怒るはずがない。不動明王はその慈悲深い心で、人々を救済しようと必死になるあまり、あのような憤怒の表情になってしまっているというのだ!

怒りの表情と、必死の表情というのは、まさしくよく似ている。不動明王は怒りに燃えているのではなく、慈悲の心に満たされており、だからこそ”必死”になってしまい、必死の表情を憤怒だと取り違えられていたのだった!もちろんこれはひとつの考え方に過ぎないが、ぼくの中で重要だった気づきは「怒っている人」と「必死に生きている人」というのは見分けがつかないということだ。

ぼくたちは怒っている人を感情的だと軽蔑し、避ける傾向にある。しかし実はただ必死に生きているだけだという人が、この世にどれだけいるのかしれない。ただ一生懸命に必死になって生きているだけなのに、誤解され、怒っているのだと勘違いされ、人々から何の慈悲の心も向けられることなく避けられ続ける運命だとしたならば、なんとかわいそうなことだろうか。ぼくたちは必死になると根源の炎を燃え盛らせ、やがて憤怒の表情へと導かれていく。しかしだからといってその怒りは、個人に向けられた浅はかな怒りとは種類を異にするだろう。必死に真剣に生きる結果としてどうしようもなく燃え盛らせる怒りの炎は、もっと清らかで、純粋で、透明で、美しいものだとぼくは信じている。

 

 

・同性愛者のぼくは否定のシャワーを浴びながら必死に人生を生き抜いた

ぼくはいつも見た目からは、優しいとか、温和だとか、大人しいと思われる傾向にあるが、本当は根源に怒りの炎を燃え盛らせている。それはぼくが必死に、真剣に生きざるを得ない運命にあるからだ。真剣にこの世を生きている者たちの根源は、いつも燃えている。

ぼくは男を好きになる男だった。運命がそのようにぼくの頭上から注ぎ込まれた。男が男を好きになる「同性愛者」は珍しく、奇妙であり、避けられる対象となることを、ぼくは周囲の雰囲気から感じずにはいられなかった。だからぼくはどんなに悲しく絶望的なことがあっても、誰にも本当の自分を見せずに、たったひとりで孤独に前へ進むしかなかった。みんなの前では頑張って笑って、家に帰ったらひとりで泣いているような日々が続いた。

男が男を好きになる人のことを、周りのみんなはからかっていた。男が男を好きになる人のことを、周りのみんなは気持ち悪がっていた。男が男を好きになる人のことを、周りのみんなは見下していた。ぼくはここに生きているのに、本当のぼくはそこにはいなかった。生きるほどに否定のシャワーは止むことなく浴びせ続けられた。いつでも、どこでも、否定は魂に注ぎ込まれた。人を好きになるという純粋で美しい思いが、他人からの否定によって穢されることのないように、ぼくは必死になってぼくの心を護った。

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ぼくの根源が燃え盛るのは必然だった。ぼくは常に必死で生き延びていた。常に注ぎ込まれる否定をどうしようか。常に浴びせかけられる悲しみをどうしようか。少しでも油断したら死んでしまうかもしれなかった。自分のことを自分でさえ嫌いになり、自殺するかもしれなかった。ぼくは必死であらゆる否定からぼくを護った。ぼくはぼくを死なせはしない。ただ人を好きになるという美しい行為によって、ぼくはぼくを死なせてはならない。美しいものは誰にとっても美しいのだと、ぼくはぼくに見せてやらなければならない。ぼくはぼくに、生まれてきてよかったと思わせなくてはならない。ぼくはぼくを、幸せにしてやらなきゃならない。ぼくは根源の炎であらゆる否定を焼き払い、ぼくを護り抜いた。そしてぼくは、いま、ここにいる。

 

 

・必死と、怒りと、性はひとつにつながり悟りという射精を起こす

ぼくは必死の表情をしてこの世を生き抜いてきた。それは今も同じことで、ぼくは今も怒りを燃え盛らせながら生きている。そしてその必死の表情は、男のぼくが射精する一瞬の表情へと繋がる。

必死で生きること、真剣に生きることと、怒りと、性の神秘が、ぼくの中でひとつに繋がる。根源は何ひとつ関係なさそうなあらゆる次元を結びつけ、絡み合いながら人を悟りへと導く。射精の感覚はこの一瞬で死ぬまいと男子に必死に耐え忍ばせ、怒りの炎を誘発する。その怒りの炎が真剣に生きる魂と呼応し、さらに我を忘れさせる。我を忘れて怒りに燃えながら生きる姿は美しい。他人などふり向きもせず、自分すらふり向きもせず、一瞬一瞬を燃え盛らせるだけの生き様の極致で、あまりに敏感な男根は魂の全てを飲み込み悟りという射精を果たすだろう。

 

 

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我を忘れて燃えさかれ