同性愛者として生まれたなら、ぼくたちは幸せになれないのだろうか
・同性愛者のぼくは幸せになれない
・普通の人生を歩んでも、幸せになることは難しい
・普通の人生を生きることは、楽をすること
・普通ではない者だけが、きっと辿り着く
・同性愛者のぼくは幸せになれない
ぼくは自分が同性愛者だと気付いた時、とても素直に、自分は幸せにはなれないのだと感じた。どうしてそう思ってしまったのかはわからない。それは理屈や理由のない直感だった。しかし今となってはその感情を推測することは容易い。ぼくは自分の身近にいた普通の人々、つまりお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんのように、異性と恋をし、結婚し、子供を持つということができないということを不幸だと感じてしまったのだった。
未熟な子供が周囲の大人を見て、それが人間として普通のあるべき姿・生き方だと信じてしまうことを、非難できる人はいないだろう。自分だって周囲の大人たちと同じように、誰もが普通にそうしているように、異性と結婚して、子孫を残して死んでいくのだと信じていた。そうでないならば、一体どのような人生を歩めばいいのか見当も付かなかった。ぼくが同性愛者である自分自身に絶望したのは、みんなとは同じようには生きられないという孤独に直面したからだった。
異性に恋をするのであれば、自分がどうやって生きていくべきなのか、その人生の道筋を参考にできる多数派の大人が周囲に沢山いた。みんなの真似をして、みんなと同じように、みんなと理解し合い、みんなと協力して、ただ人生の雛形をなぞるように、流されるように生きていればよかった。それができない自分はたったひとりで仲間外れにされ、それが不幸だと悲しんでいたのかもしれない。
・普通の人生を歩んでも、幸せになることは難しい
しかし大人になってみればわかるのは、ぼくたちが普通の人生を歩むということでさえ意外と難しいという事実だ。たとえ異性愛者であり、異性を好きなったり、異性に恋をしたり、異性に発情する能力があったとしても、顔が変だったり、性格が悪かったり、コミュニケーション能力が低かったり、年収が低かったり、病気を抱えていたりして恋愛したり結婚できない人も見受けられる。さらにたとえ結婚できたとしても、不妊症で子供ができずに悩んでいる人々もいるだろう。
異性と恋をして、結婚して、生殖して、子供をもうけることができた後でも愛が持続しなかったり、不倫をされたり、ATMとして利用されたりして、様々な不幸に見舞われている人々もいるようだ。そのような人々と同性愛者として生まれ普通の人生を歩めないことの、どちらが幸せでどちらが不幸か見極めるのは甚だ困難だろう。
普通の人生を歩めたとしてもお金がなかったり、病気になったり、労働が辛かったり、人間関係がうまくいかなかったり、思いもよらない事件や事故に遭遇したりして、世の中の人は常に悩み苦しんでいる。そもそも仏教で生老病死(しょうろうびょうし)と言われているように、人間はこの世に生まれた後は必ず老いて、病気になって、やがては絶対に確実に100%死んでしまうようにできているのだから、死という最も恐ろしい終着点へと向かっている人生という列車が苦しみや悩みに満たされないはずがない。
・普通の人生を生きることは、楽をすること
自分が同性愛者だと知ったぼくは、他の人と同じような人生のレールに乗れない、普通の人生を歩めないことを不幸だと嘆いていた。みんなが仲良く助け合いながら普通に生きていくことができる軌道を追い出され、自分ひとりだけが道標のない広大な荒野に置き去りにされた気分だった。あのレールに乗ることさえできていれば、必ずとは言わないまでもみんなと同じように普通の人生を歩め、孤独を感じずに幸福になれる可能性が高まったのにと悔やんだ。
しかしそれはただ単に、幸せになりたかったというよりは、楽をして生きていたかっただけなのかもしれない。普通に生きるということは、普通に生きないことよりもはるかに楽だ。何か問題が起きた時に、普通に生きている周囲の同じような人を参考にし、相談し、共有し、助け合い、軌道修正する方法が見付けやすいからだ。
その一方で普通に生きられない孤独な者たちは、最初からあらゆる問題が心の中に積み重なっているにも関わらず、誰に打ち明けることもなく、何を参考にすることもなく、ひとつひとつ自力で、独学で、誰も知らない自分自身だけの問題をただひたすらに必死に解決していく必要がある。そうすることなしに荒野に投げ捨てられたぼくたちの魂が、未来へ続く救済の道筋を見出すことはできないからだ。地図もなく、道標もなく、案内図もない人生という荒野の中で、ぼくたちは誰の真似をすることもなく、自分だけの独自の生き様を描いていくより他はない。それはまるで誰もいない暗闇の中を、ただ一筋の光すら持たずに彷徨い歩き続けていくような、途方もない旅路のように感じられた。
・普通ではない者だけが、きっと辿り着く
みんなと同じように生きることが幸福で、みんなと異なるように生きることは不幸だと信じていた。それは誰かに教えられたわけではなく、集団行動をして暮らす習性を持っている人間という動物の本能的な直感だったのだろうか。自ら進んで群れから逸れたがる個体はいない。群れから逸れるのはいつだって、逸れざるを得ない運命的な理由を持っているからだった。
しかし世の中を見渡してみれば、ぼくたちの幸福は、普通であるのか普通でないのかに左右されるものではなかった。普通であれば楽に生きられ、普通でなければ人生は困難を極めるというだけのことだった。普通であろうが普通でなかろうが、全ての人間は思い悩み、苦しみ、もがいていた。人間の幸福とはみんなと同じであっても、みんなとは違っていても、それとは無関係に自らの魂の本質を追求した者にしか与えられない限られた桃源郷だった。
ぼくの魂には、ぼくだけの幸福があった。あなたの魂には、あなただけの幸福があった。それは他人とは無縁で関係がなく、普通であるか普通でないのか、みんなと同じかそうでないのかなど、他人や集団に影響を及ぼされるような低俗な次元には位置していなかった。ぼくたちの幸福を追い求める聖なる旅路は、いつだって自分自身にしか見つけ出すことのできない啓示の先にしか広がらなかった。
誰かの真似をしているだけでは、辿り着けないだろう。
誰かと同じように生きているだけでは、見出せないだろう。
普通に楽をして暮らしているだけでは、道のりは遠いだろう。
苦しみの果てで、おまえにしか見えない光がある。
悲しみの底に、おまえにしか作れない鍵が眠っている。
怠ることなく、魂の修行は続けられた。
世界の巡礼は、絶えることなく神々へと導いた。
ぼくたちの幸福は、もうすぐそこだ。
ぼくたちの救いは、きっとこの丘を超えたところに。