人を好きになる気持ちに、罪悪感なんて要らない。
ノンケの親友を恋愛対象として好きになることは彼に対する裏切り行為になるというのは本当か?
目次
・ゲイがノンケの親友を好きになってしまうことはしばしばある
ゲイというのは、男の肉体を持ちながら男を好きになるという人間のことだ。普通男は男同士、女は女同士でよく群れる習慣を持っているので、男の肉体を持って生きているからには日常生活で男と絡む場面が多くなる。男の肉体として生まれたからには当然男と交流する場面は多く、その友情関係の中で自然と友達を好きになってしまうということはよくある。特に最も距離が近く気の合う「親友」と呼ばれるような友達を好きになってしまうことは、とても自然なことだ。
しかし確率の問題から言って、その親友は男を好きにならない可能性、すなわち女性を好きになる男(ノンケ)である可能性が非常に高い。男の肉体を持って生まれてきた生命は、女の肉体を求めてさまよい歩く可能性が極めて高いからだ。普通、男は女の肉体を求めると世間一般的にも信じ込まれているし、何の注釈も何の言及もなければ、目の前に男性が立っていたならば、あぁこの人は女の肉体を求めてさまよう種類の人間だと誰もが思うだろう。それほどまでに男の肉体が女の肉体を求める確率は高く、男の肉体が女の肉体を求めるのは当たり前だと人間の間では信じられている。
特に探りを入れようとしなくても、その人が可愛い女の子の話を嬉しそうにしていたり、どんなタイプの女の子がいいかの話題を盛んにしていたり、女の子のエッチな話をしていたりすると、元から高いその人がノンケである可能性はさらに高まるだろう。しかしそれは意外なことではなく、あぁやっぱりなと当然のこととして受け入れるだけである。ぼくたちは誰もが、男の肉体が女の肉体を強く求める確率の高いことを知っている。
・ノンケの親友を恋愛対象として好きになることは彼に対する裏切り行為というのは本当か?
それゆえにゲイがノンケに抱く恋心は、最初から叶わないと決まっている場合が多い。ゲイは男を好きになる男だが、ノンケは女を好きになる男だ。2人が両思いになる可能性は0であることは、幼い小学生だってわかることだろう。しかしどんなに叶わない片思いだと理屈ではわかっていても、恋心というものは理屈や論理など超えて人間に強烈に襲いかかる天災と同じようなものなので、好きになってしまえばどうしようもない。ただ生命の根源から押し寄せる野生的な炎として、好きな気持ちに翻弄されるのみである。
どうせ叶わないとわかりきっているのに、ゲイからノンケに告白すべきかというのは、恋心を抱くゲイにとっては重要な問題だ。どうせ叶わないとわかっているのに、自分の思いを打ち明ける必要なんてあるのだろうか。もしも仲のいい友達や親友のノンケに告白する場合、もはや今までのような関係を続けていくことは不可能になるだろう。もしかしたら気持ち悪いと思われるかもしれないし、ドン引きされるかもしれないし、避けられてまともな会話すらできなくなるかもしれない。そんな人じゃないと信じていたいけれど、予想外のことが起こった時に、人というのはどうなるかわからないものだ。
そうなってしまえば自分の心が傷つくのはもちろんのこと、今まで親友だった彼の方だっていきなり無造作に友情を奪い去られて困惑し、悲しむことだろう。ゲイがノンケの親友に片思いしてしまった場合、ゲイの方も叶わない思いに深く傷つくが、ノンケの方だってどうしたらよいかわからずに、これまでの友情が突如として壊されて悲壮な思いをするに違いない。そんな時にゲイは、ノンケの親友を裏切ってしまったような気持ちになり、罪悪感に苛まれてしまう場合がある。しかし本当に、ゲイがノンケの親友に恋心を抱くということは、ノンケの親友に対する「裏切り」行為となるのだろうか。ゲイはノンケの親友を好きになってしまったことに、罪悪感を抱くべきなのだろうか。
・「好き」であることは親友の必要条件
裏切り行為とは一体なんだろうか。世の中には様々な裏切り行為があると思われるが、突き詰めて言えば信頼関係が成り立っているのに、その信頼を身勝手に壊してしまうことではないだろうか。ではゲイがノンケに恋心を抱いた際に壊してしまう「信頼」とは一体何だろうか。
親友同士の関係の間に横たわっている「信頼」とはどのようなものだろうか。それは単に嘘をつかないとか、隠し事をしないとか、何でも話し合えるとか、そういう誠実さが信頼を生み出し、親友という尊い関係を築き上げるのではないだろうか。ぼくが思うことは、その誠実さの中には「あなたを好きにはならない」という項目なんて入っていないのではないかということだ。むしろ「あなたを好きである」ということは、親友関係の必要条件ではないだろうか。親友であるならば、お互いに好きで当たり前だ。
その好きという思いがゲイの片思いの場合は”性的”であるということから、裏切りの思いや罪悪感が生まれるべきだというのだろうか。親友であるためには「好き」という思いが絶対に必要であるのに、その「好き」が性的なものへと転換された途端に裏切りになるというのは、同じ「好き」という思いであるのに非常に不可解だ。そんなに性的であるということは、悪いことなのだろうか。それでは親友同士の「好き」というものは一体どのような感情なのだろうか。親友同士の「好き」と性的に「好き」という感情の間には、一体どれほどの隔たりがあるというのだろうか。親友同士の「好き」と性的に「好き」という感情なんて、意外と親密で隣り合わせで、区別すらつきにくい代物ではないだろうか。
・この世の全ての「好き」という気持ちは尊いものであり、罪悪感を抱く必要は全くない
親友同士の「好き」が賞賛されるべき素晴らしい気持ちで、それが性的な「好き」になれば親友への裏切りとなり穢れた薄汚い感情だと見下されるという風潮は、全く意味不明である。なぜそんなに性的であるということは、悪いことだと見なされるのだろうか。それがあまりに動物的であり、野生的であり、生々しい生殖器に関連するものだからだろうか。それならば世の中の男女の「好き」という言葉や気持ちなんて、ほとんど性的なものなのだから、彼らの全ては薄汚れた存在なのだろうか。男女の「好き」という性的な思いはよく美しいテレビドラマになったり、賞賛される映画や小説になったりするのに、どうして男が男の親友に抱く性的な「好き」にだけは罪悪感や裏切りの後悔を感じなければならないのだろう。
この世の全ての「好き」という思いは、絶対に正しい。その思いがあなたにもたらされたならば、それは尊い素晴らしい感情として大切に育むべきである。同性の親友を好きになってしまったからと言って、それを彼への裏切りだとか、自分は異常な人間だと罪悪感に苛まれる必要など決してない。あなたは彼と親友として「好きにならない」という約束など交わしただろか。むしろ「好きである」ことが親友にとって必要なことではなかっただろうか。その必要な「好き」が性的なものに転換されたからと言って、それがそんなに重要なことだろうか。裏切りだと思い悩むほとのものだろうか。親友の「好き」と性的な「好き」なんて紙一重だ。人間は必死に境界線を引いて世界を認識しようとするが、真理の世界では、境界線など曖昧なままのたどたどしい偽物なのだ。親友の「好き」が突如として性的になったり、性的な「好き」が気づいたら親友の「好き」になっているなんてことは、いくらでもあり得る。
そして性的であるということを、裏切りだとか穢らわしいとか見下さないことだ。世の中は全てが性的だ。あなたも、彼も、彼女も、全ての生命は性的な行為によって誕生したのだ。そして全ての人間が性的に誕生している限り、人間が作り出した全てのもの、例えば机や、椅子や、パソコンや、インターネットさえも、全ては性的に誕生した人間から生み出された、性的な物質や現象だ。この世の全てが性的なのに、あなたの親友への性的な恋心だけが裏切りの罪悪となることは決してない。
男が性的に男の肉体を求めることが異常なことだと思い悩むことも決してない。よくよく考えてみれば、男が女の肉体を求めることだって、かなり変態的な行為だ。女が男に抱かれることを願うことだって、かなりいやらしくて動物的だ。それなのに彼らの性的な変態性が世の中で許容され、変態的で性的な現象が美しいドラマとして広く放映されているのは、ひとえに彼らの変態性が「メジャー」で「多い」からという理由だけだ。「多いから」「みんなそうだから」という理由で彼らの変態的で動物的な行為は世の中で許されているけれど、彼らが変態的で動物的だという事実が消え去っているわけでは決してない。ただそれが「普通」のことだと開き直り、彼らは自分の変態性や動物性に目隠しして都合よく見えなくしているだけだ。男が男の肉体を性的に求めることが異常で変態的だと感じるのなら、それは他の男が女の肉体を求めたり、他の女が男の肉体を求めたりするのと同じ程度に異常で変態的だというだけのことであって、みんなと同じくらい変態なだけだから気にすることなど微塵もない。
すべての植え付けられた恐れやあらゆる洗脳から解き放たれて、自らの生命に宿ったどんな「好き」という気持ちでさえ受け入れ尊く思い、その結果がどうなろうと大切に慈しみ、育むべきである。恋する気持ちは自分ではコントロール不能であり、欲しくなくても大いなる力によって勝手にもたらされる運命なので、それを一旦受け取ってしまったのならば仕方ないと受け入れ、相手と自分の関係性を考慮しながらも思いのままに突き進んで行く他はない。どのような結果がもたらされようとも、それは自分のせいではなく、彼のせいでもなく、ただただどうしようもない運命のせいなので、必要以上に自分も含め人を憎むべきではない。ただ必要なことは、自らの感性と炎を信じて突き進んでいく上で、植え付けられた恐れやあらゆる無意味な洗脳をふりほどくだけの勇気と真理を見抜く聡明さを身に付けることである。
・ぼくの高校時代の初恋について
・大学時代の2番目の恋について
・同性愛について