「そういうのってムカつく。だって、あたしが殺したわけじゃないもの」
中島みゆきの戦争に対する考えとは?「戦争と平和」に掲載された中島みゆきのコメントが衝撃的だった
目次
・ビッグスピリッツ「戦争と平和」に掲載された中島みゆきの衝撃的なコメント
その昔ビッグスピリッツという雑誌の中で「戦争と平和」という特集が組まれ、さまざまな著名人からの湾岸戦争に関するコメントが掲載されたことがあるという。他の著名人たちがそれなりにもっともらしいコメントを寄せる中で、1991年6月号中島みゆきからの湾岸戦争に関するコメントはかなり衝撃的な内容だったようだ。中島みゆきのコメントとは、以下の通りだった。
・中島みゆきの戦争に対する感想?!「ニッポン回答」全文
「ニッポン回答」
戦争なんて終わったのでしょう?
もう遠い昔ばなしの気分がするわ
戦争なんて終わったのでしょう?
なんかテレビとかでひと晩じゅう
ずっとニュースとか討論会とかを
やってた頃があったのは覚えてる
誰が悪いかよく解んなかったけど
早く終わればいいなとは思ったわ
だって戦争があんまり永びいたら
物価が上がるとかって噂だったし
毎日毎日戦争のニュースばかりで
なんか感動しなくなっちゃったし
核戦争になんかなってしまったら
シェルター暮らしなんてイヤだし
もちろん可哀相と思ったわ戦争で
死んだ人の家族が悲しんでるのを
テレビで観てもらい泣きしたもの
でもホンモノの死体が映ってると
思うと恐いから見ないようにしたやっぱりホンモノは迫力あるから
でも戦争は終わったのでしょう?
こんどまた起きたってそのときも
このくらいで終わるかもしれない
あたしの生活は何も変化なかった
昔むかしの戦争の時代にはみんな
スイトンや草の根を食べただとか
靴なんか手に入らなかっただとか
しつこく聞かされたけどそれって
昔だからそうだったんでしょう?
今は物が溢れてる時代なんだから
兵士の食事にだってデザートまで
ついてたそういう時代なんだから
これからの時代は戦争になっても
生活は変わらないんじゃないかな
そりゃ戦争は絶対反対だけどもさ
この戦争で被害を被った人たちに
どうしてあたしが済まなく思うの
どうして責任とか義務とか言うの
そういうのってムカつく。だって
あたしが殺したわけじゃないもの
・「ニッポン回答」は本当に中島みゆきの本心が綴られているのか?
なんとも戦争について真面目に考えていなさそうなやる気のなさそうな文章が興味深い。ぼくは当時この雑誌を直接読んだわけでもないし、湾岸戦争時代の世の中の雰囲気を知らないので推測でしか感想を言えないが、おそらくこれは中島みゆき自身の心情というよりもむしろ、おおよその日本人の戦争に対する認識や気持ちを代弁して言葉にした文章のように見える。みんなこれくらいにしか戦争のことなんて考えていないでしょうという、世の中の関心の程度を見抜いているような鋭ささえ感じられる。
しかしだからと言って戦争にもっと興味を持つべきだとか、戦争についてもっと真面目に考えて議論すべきだなどと上からお説教をするような啓発的な文章では全くなく、中島みゆきはあくまで世の中の人々の気持ちを代弁して書き綴ったままでコメントは終わりを告げる。これではまるで中島みゆきが戦争に対して全く真面目に考えておらずけしからん人間であるかのように誤解され、これを読んだ世の中の正義感の強い人々から非難されてしまう可能性を十分にはらんでいると言えるだろう。にもかかわらずこれは自分自身の言葉ではない、世の中の人々のおおよその気持ちを代弁しているだけだと一切言い訳することもなく、まるで自分の気持ちであるかのように文章を言い切ってしまうところにある種の心地よい潔ささえ感じてしまう。思慮深い中島みゆきは世の中の多くの人々から誤解されるだろうと相当な覚悟をした上で、それでもこの文章を雑誌に掲載することを許したのではないだろうか。
・挑発的な文章を書くことによって、逆説的に人々を戦争への関心へと導くという手法
世の中に溢れまくっている「戦争反対!」とか「戦争なんて絶対にしてはならない!」「戦争をやめろ!」という言葉は、確かに正しい言葉には違いないものの、あまりにも多く誰も彼にも言われ過ぎて、全く効力を発揮しない無意味な言葉になってしまっているのではないだろうか。誰だってなんの覚悟も熱量もなく、気軽に「戦争反対!」と叫ぶことができるだろう。それは「戦争反対!」という言葉が”絶対的な正しさ”を持ち合わせながら人間の世の中で君臨していることを知っているからだ。
「戦争反対!」と言いさえすれば、誰だって正しくまともな人間になることができる。逆にいえば正しい人間になりたいとき、まともな人間になりたいとき、常識のある人間だと世の中で思われたいとき、「戦争反対!」という言葉はそのための道具として使うことができるということだ。正しさの陰に隠れながら生きていたいとき、まともという盾に身を潜ませながら自分を守りたいとき、常識というバリアの中で匿われながら安らぎたいとき、人間は小賢しく絶対的な”正しさ”を叫び始めるだろう。
正しいことを叫ぶ人間というのは、いつも怪しい。それは純粋に正しさを主張したいわけではなく、正しさによって自分自身を完璧に防御しながらも、その対極にいる者たちを攻撃し排斥するための残酷な武器として賢しらに利用される場合があるからだ。その怪しさや、怠惰や、臆病さを見抜いているからこそ中島みゆきは、敢えて世の中に氾濫しているありふれた「戦争反対!」などという軽率な言葉を使うことを避けたのではないだろうか。
「戦争反対!」「戦争なんて絶対にしてはならない!」「戦争をやめろ!」などというどこにでもある量産型の言葉を書き並べたところで、それを読んでいる読者が本当に心から注目し、ハッとし、関心を寄せるだろうか。中島みゆきは読者に、本当に戦争について興味を持って深く考えてほしいという願いがあったからこそ、敢えて自分が悪者になることも恐れないで、世の中の正しさや、まともさや、常識とは全く真逆の、それでいて誰の心の中にも潜んでいる本音をえぐり取り、言葉にし、文章として掲載したのではないだろうか。
・「僕たちの将来」の歌詞はまさに「ニッポン回答」を連想させる
中島みゆきの歌詞の中に「戦争」という言葉が出てくることは少ないが、1984年発売の11枚目のオリジナルアルバム「はじめまして」に収録されている「僕たちの将来」という歌の中では、まさに上記のような世の中の戦争に対するそこはかとない日本の無関心が描写されている。
青の濃すぎるTVの中では
まことしやかに遠い国の戦争が語られる
僕は見知らぬ海の向こうの話よりも
この切れないステーキに腹を立てる僕たちの将来はめくるめく閃光の中
僕たちの将来は
僕たちの将来は
よくなっていくだろうか
(この記事は著作権法第32条1項に則った適法な歌詞の引用をしていることを確認済みです。)
・中島みゆきが戦争について深い関心を寄せていることがわかる「Nobody Is Right」
また中島みゆきコンサート2010の中で最もメッセージの強かった楽曲「Nobody Is Right」では、歌詞の”争い”という部分が”戦争”という言葉に変えられており、やはり中島みゆきが戦争について深い関心を寄せ、それについて表現したいことがあるという事実がありありと伝わってきた。
争う人は正しさを説く
正しさゆえの戦争を説く
その正しさは気分がいいか
正しさの勝利が気分いいんじゃないのか
コンサート2010は映像化されなかったが、唯一大迫力の「Nobody Is Right」だけはベストアルバム「ここにいるよ」で映像化されて鑑賞可能となった。心からおすすめできる一見の価値がある素晴らしい映像作品だ。
衝撃!中島みゆきコンサート2010ではNobody Is Rightの歌詞が「争い」から「戦争」へと敢えて変更されていた
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