常識や正しさや多数に守られることができないぼくたちは、むしろそれらを退き傷だらけの歩みを進めよう

 

ぼくたちは常識や正しさや多数派という強大な力に匿われながら、小賢しく生きることができる。

常識や正しさや多数に守られることができないぼくたちは、むしろそれらを退き傷だらけの歩みを進めよう

・常識の陰に隠れる者

世界には既に成立された常識であふれている。人々は皆、その常識の川に沿って歩いては、目立たないように攻撃されないように留意している。自分本来の願いや思いとは異なることであっても、それが常識だと世の中で言われていることならば、大抵のことならばおかしな人間、信頼されない人間、常識外れの人間だと思われないために、常識のぬるま湯の中へと浸っていく。

しかしあまりにも常識に従いすぎて、自分自身の思いをないがしろにしすぎると、生きていく度に違和感が生じ、違和感はやがて心の中の他者への攻撃へと結びつく。そして常識というものに従わない者たちを妬み、否定し始める。自分自身が攻撃されることを恐れて、他者からの目を気にして、自分らしく生きることを放棄し保守的となり世界の常識にしがみついて生きてきた者が、今度は身勝手ながらにも、それによるストレスから努めて自分らしく生きている者に非難を浴びせる。

そのような場合、世間の常識をなぞりながら生きている者たちの意見の主張は強いように感じ、また彼ら自身も自分で自分が強い存在であると思い込む。それは常識という、自分自身を守ってくれるバリアがあるからだ。常識という自分で作ったわけでもないただ従っただけの強力なバリアの後ろにコソコソと隠れつつ、その壁の後ろの安全地帯から常識から外れた人々を責め立てる。それが彼らの生きる楽しみであり、他人の目を気にしすぎるあまりに自分自身の人生を生きることを喪失してしまった彼らにとって、それだけが心の拠り所となることだろう。

 

 

・正しさの陰に隠れる者

「それは論文の中で証明されている」と言えば心地がいい。まるで自分自身が証明された正しさの中に住んでいるような気分になり、証明された正しさをまといながら誇らしげに生きる者たちは、他者からの間違っているのではないかという蔑みや疑いの目を、科学的データを提示することによりすり抜けて生きていくことができるだろう。

しかし彼らの中には、その正しさを自らの手で証明した者は滅多にない。誰もが他人の論文や検証を読み上げ、そのデータを記憶し脳の中に蓄えて、誰かの調べ上げた正しさを口から放出する。そして自分が間違っているのかもしれないという世の中からのあらゆる疑いの視線を退け、自分を清らかで正しい存在として保とうとする。けれども彼らの中には真実を自らの手で求めようという思いが見えない。誰かが真実を追い求めてくれた思いを道具として、自分自身を間違いという海から逃そうと企んでいる。

証明された正しさという守護神に守られて生きる人生は、さぞ安心感を与えられることだろう。そして証明された正しさという完璧な防御壁に守られた人間たちは、時として証明されていない間違いを帯びた者たちを次第に攻撃し始める。自分の方が正しいのだからと、自分は証明された正しさに守られているのだからと、思い上がりは天を貫き、傲慢さは大地に響き渡る。

彼らが正しさを手に入れたがったのは、対となる間違った者たちを見下し、誹り、攻撃するためだったのだろうか。正しさを帯びた自分は価値のある人間で、正しさをまとわない人間たちは取るに足らない人間だと、自分自信を誇るためだったのだろうか。しかし悲しいことに、この世界のすべてを証明することはできない。人間は自分の周囲をすべて、証明された正しさで埋め尽くすことはできない。

人間にわかる世界の正しさなど、風の前に見える塵ほどの量もないだろう。どんなに科学の観点から真実を解き明かしても、歴史を紐解いて人間の真理を突き詰めても、この世界を人間の正しさが埋め尽くすことなど決してない。

正しさを道具にして間違った者たちを巧みに傷つける者たちは、いつの日か証明を超越した無秩序な真理に突き当たり、立ちすくみ動けなくなる日を知るだろう。

 

 

・多数派の陰に隠れる者

多ければ多いほどに、人間の集団は力をみなぎらせる。それが正しかろうと間違いだろうと、真実だろうと誤解だろうと、ただ多いというだけで、人間の世界ではそれが強力な意味を持つ。多ければ多いほどにそれは力強さを増し、多ければ多いほどに、次第にそれは”正しさ”へと変換される。人間の世界の”正しさ”とは、多いということの別名だ。どんなに残酷でおかしなことであっても、それを支持する人々の数が多ければ、それはその国での正しさとして通用する。

そして多数派の人間たちは自分たちで作り上げた”正しさ”を振りかざし、自分とは異なった者たち(=少なき者)を攻撃し、排除し始める。少なき者はひ弱で、微力で、世界から否定され、自分たちはもしかして間違った存在ではないかと悲しく思い始める。もしかしたら生きていてはいけいないのではないかと思い始める。

この人間世界の構造に気づいた少なき人々の中には、生き残るために多数派のふりをする人もいる。少なき者たちの悲しみを痛いほど知っているはずなのに、多き者として翻り多き者と共に少なき者を否定することもある。人間の心の弱さがここに立ち現れている。自らの心の軸を持たずに、多き者の集団と少なき者の集団を行き来できる者は、いつしか魂が迷妄の世界から抜け出せなくなるだろう。

真理や正しさは数の多さによって見出すことはできない。多いゆえに正しいのだという思いにとらえられた心たちは、真理へと通じる道からはるか遠ざかることになるだろう。

 

 

・ぼくらは傷つかないために生まれてきたんじゃない

常識や正しさや多いということの陰にただひたすらに隠れて生き延びたならば、おそらく生きることは容易となるだろう。しかしそれがぼくたちのこの世に生まれてきた意味なのだろうか。ぼくたちは安全な柵や壁の後ろで守られつつ生きて、柵や壁を持たざる人々の様子を心の隅で嘲笑いながら、自分自身の中の願いや炎を見ないふりをして、虚偽の世界の中を歩くために生まれたのだろうか。他人の目を気にするあまり、他者の評判が気になるあまり、自分が傷つけられることをおそれるあまりに、本来この世に産み落とされた目的を見失ってはいないだろうか。

安室奈美恵のGet Myself Backという綺麗で爽やかな歌のサビの最後に次のような歌詞がある。

”傷つくため生まれてきたんじゃない”

ぼくはこの歌詞を聞くたびにいつも思う。ぼくらは

”傷つかないために生まれてきたんじゃない”のだと。

 

 

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