同性愛者は異常じゃない!男が男を好きになることは、異常で気持ち悪くて変態的だというのは本当か?
目次
・世の中は常に発情している
世の中には様々な種類の「好き」という言葉が存在する。例えばぼくがお母さんを好きだということも、水色を好きだということも、旅をすることが好きだということも、同じ「好き」という日本語の動詞で片付けられてしまうけれど、それぞれの「好き」には微妙に異なった意味合いが含まれている。
しかし世の中でもっぱら噂される「好き」という言葉は、そのほとんどが生殖に関わるもののことだ。この世は常に発情している。全ての人間は成熟すれば生殖器に支配され、自分がなんのために生まれて来たのかという本来の透明な生命の意味も忘れて、性的に自分を満たしてくれるものをおろおろと探し求めるために一生という尊い時間を費やすようにできている。
ここでは発情した世の中の風習に倣って、性的な意味での「好き」という現象について語っていこう。
・「男は女を好きになるもの」「女は男を好きになるもの」
世の中の常識として、男は女を好きになり、女は男を好きになるという。男が女を好きになってもおかしいと笑う人はいないし、女が男を好きになっても誰もその人を咎めはしない。その好きな気持ちは当然のものだと受け入れ、認め合い、その思いが叶うように密かに協力し合うことで友情が育まれたりもする。人を好きになるということは当たり前であり、人を愛することは素晴らしいことであり、好きという思いに突き動かされながら人々は喜んだり、驚いたり、悩んだりしながら、人間の世の中は揺れ動いて行く。好きという気持ちが誰もが共有して持っている本能に根ざしている限り、それは人間社会にとって最も重要な根源的エナジーであり、どんなに洗練された見せかけの都会であっても、結局は動物的な好きという思いに満たされた原始的集落である。
人を好きになることが寛容に認められているように見える世の中においても、珍しい異物が混入すると事情は変わってくる。例えば男が男を好きになると、人々は「ホモ」「ゲイ」「オカマ」などと言って好奇の目で見てくる傾向にある。またそれらの言葉には男が男を好きになるという本来の意味の他に「異常だ」「おかしい」「危ない」「変態だ」「気持ち悪い」という概念が密かに含まれていることを、全く感じずに世の中を渡って来た人は少ないだろう。どんなにそう思うのはいけないことだと一部の人々が声高に叫ぼうとも、世の中に植え付けられた思い込みを完全に除去することは今なお困難であり、男を好きになってしまった男はその負の否定的イメージの気配を察知し、戸惑い、悩み、誰にも相談できずに孤独に自らの根源から沸き起こってくる恋心と対峙しなければならない日々が続く。
初恋が何歳の出来事かは個人差があるだろうが、大まかにいえば思春期だろう。性機能が成熟し性的欲望が盛んになる思春期に、男は女の肉体の話題に夢中になり、女はかっこいい男の言動に夢中になり、そのエネルギーがピークに達している時代において、そのエネルギーのベクトルが自分ひとりだけ密かに異なっていることほど孤独感を感じることはないと、同性愛者のぼくは経験上からも感じられる。それが思春期の間だけならばまだ何とか耐えられるかもしれないが、人間というものは思春期を通り過ぎてもほぼ一生性的に発情している動物であり、同性愛者はぼほ一生かけて「男は女を好きになるもの」「女は男を好きになるもの」と思い込まれている浅はかな世界で、孤独感と戦っていかなければならない運命を背負っている。
・思春期の同性愛者の男子は、常に否定のシャワーを浴びる
男が男を好きになることをからかったり、嫌悪感を抱くのは、どちらかと言えば異性愛者の男性が多いようだ。自分を好きになられたら困るという恐れからだろうか、自分と同じ肉体を持っているのに自分と同じ性的機能を示さないことが全く理解できないという排除的心理だろうか、自分もつられて男を好きになってしまったらどうしようという繊細な心配からだろか、男と男が抱き合っているところを想像しても自分の発情する女体が出てこないという残念感からだろうか、異性愛者の男性は同性愛者の男性を心においても体においても遠ざける傾向があるように思われる。日常会話で繰り広げられる「お前はホモかよ!」というツッコミも、男を好きになる男に対する見下しや偏見が込められている。
それに対して異性愛者の女性は男が男を好きになることに寛容な場合が多いどころか、男が男を好きになる物語を好んで鑑賞する傾向まで持ち合わせている。男が男を好きになるという次元に、女である自分は無関係でいられるので安心して見ていられるからだろうか、それとも男が女の肉体を求める欲望があまりに強烈で嫌気がさし、単純な本能に翻弄されない通常の性的欲望を超越した純粋な恋愛を見たがっているのだろうか。女性の心理的詳細は定かではないが、いずれにしてもゲイを嫌悪したり、否定したりする女性は、男性よりもはるかに少ないように感じられる。それはやはり男が男を好きになるという異質で珍しいゲイの世界に、自分が巻き込まれる可能性があるか全くないかの違いが表れているのだろうか。
ゲイが男の肉体を持って生きている限り、思春期の学校生活などでは当然男性と過ごす時間が多くなる。そんな男性社会において、男が女の肉体に欲情しないなんておかしい、男はみんな女の肉体に魅了されそそられるものだ、男が男を好きになるなんてどうかしている、男が男を好きになるなんてあり得ないし気持ち悪いし見下されたり避けられたりして当然だという空気の中で、思春期の同性愛者の男子は本当の自分を隠しつつ、常に否定のシャワーを浴びる運命を背負いながら前を向いて歩いていくしかない。それがどんなに過酷で、精神的につらく、自分の人格形成にまで影響を及ぼす強烈な否定であるかは、当事者になってみないとわかるはずもない底知れぬ仕打ちだろう。
では同性愛者の思春期男子たちが常に否定のシャワーを浴びなければならないほど、そんな風に周囲の友達やその他の世界から抑圧されなければならないほど、男が男を好きになるということはおかしなことなのだろうか。
・この世の「好き」な気持ちは全て正しい
そもそもの前提として、男が男を好きになるということは正常だ。それは男が女を好きになったり、女が男を好きになったり、女が女を好きになったりすることと同じくらい自然なことだ。もしもそれが異常だったり間違っているというのなら、長い生命の進化の歴史の果てで、自然淘汰されて同性愛者はこの世から消滅してしまっていることだろう。必要だからこそ、何らかの役割や使命があるからこそ、人口のうちのある一定の割合で同性愛者が出現するように、神様か仏様かあるいは自然の摂理が、人間の生命システムを調整しその結果として同性愛者がこの世界に存在しているのだ。
この世界に存在している「好き」という感情は全て正しい。例えば少女が好きだったり、少年が好きだったり、おばあさんが好きだったり、赤ちゃんが好きだったり、ゾウさんやキリンさんが好きだったり、壁が好きだったり、お茶碗を性的に好きだったりしたところで何の問題もない。法律や宗教は一部の「好き」という感情を否定し禁止しているけれど、それも人類を繁殖させようとか治安を守るべきというたかが合理的な理由に基づいているに過ぎず、生命の根源から押し寄せてくる「好き」という感情は合理を超越するからこそ尊いのであり、この世のあらゆる燃え盛る「好き」という神聖な炎を、権力者が民衆を支配するための下らないルールや規則で抑圧されていい謂れなどない。
ぼくたちはまず、この世の全ての「好き」という神聖な根源の炎を受け入れ、認め、尊敬することから人生を始めるべきだ。
・男が男を好きになることは、異常で気持ち悪くて変態的だというのは本当か?
しかしそうは言っても珍しく、わずかで、少なき者には好奇と見下しの目が向けられる。それが本来隠されるべき性的なことであればなおさらである。男が男を好きだということは、純粋な恋する気持ちを飛ばして、ただ肉体関係のみに焦点が当てられることもしばしばだ。そして男と男の肉体が絡み合うなんて異常だし、気持ち悪いし、おぞましいし、変態的だと、特に男性からそのような意見が挙げられる傾向がある。
しかしはっきり言って裸で抱き合うことなんて男と女だろうが、男と男だろうが、どちらも同じくらいいやらしく変態的な行為ではないだろうか。男は女に発情する自分は正しい生物で、男に発情する男なんて変態的だというが、果たして本当にそうだろうか。男がスクリーン画面の中の女の肉体を見て発情し下半身を丸出しにして自慰行為を行う様子なんて、誰にも見せられないかなり間抜けで恥ずかしい変態的な姿ではないだろうか。その画面の中の肉体が女から男に変わったところで、画面の前の男の変態的度合いはさほど変わらず、結局は全く同じくらいの異常さではないだろうか。
性行為に関しても同じことだ。男は女の肉体に発情し、女の肉体を隅々まで舐めまわした後で自らの生殖器を相手の生殖器に必死に押し当て、動物的な快楽を「正しい行為」として楽しんでいるけれど、それだって冷静に考えてみれば日常生活では考えれないほど異常で、野蛮で、変態的でおかしな行為ではないだろうか。その場面の女が男になって「同性愛的営み」に変わったところで元々がかなりの変態的行為なのだから、男同士であることを理由にもっと変態的になるということはないと断言できるだろう。結局は男と女であろうが、男と男であろうが、裸で絡まり合い動物的に盛るという行為は全く同様に変態的だということだ。男と男が純粋に求め合うままに裸で抱き合うことが変態的だというのなら、それは男と女が裸で抱き合うのと同じくらいの動物的変態度合いであるというだけだと言い返すのみである。
・多き者たちの偽物の正常、少なき者たちの絶対的な遡上
男と女が裸で抱き合うという出来事はみんながやっており、この世にありふれており、メジャーであり、多くあることから「正常な行為」「当たり前の行為」「普通の行為」だと世の中では見なされているけれど、冷静に考えてみれば丸裸で動物のように抱き合うなんてことが普通の行為であるはずがない。普通の行為であると言い張るのなら、日常生活の中で食事をするようにみんなの前でやってみればよい。できるはずがない。それは隠すべきおかしくて異常な行為だと誰もが自ら認識しているからだ。けれど自分が動物的で異常だなんて信じたくない人々が、「多いから」「みんながやっているから」「子孫を残るために必要だから」という理由でこれは「正常な行為」「普通の行為」だと設定し、自らの野生的で恥ずかしい行為を合理化している。しかしどんなに自らの行為を取り繕ったところで、変態的な行為は変態的な行為だ。その事実から人は逃れることができない。
自らを正常な人間だと設定し安心して世の中を渡っていくためには、自分を相対的に正当化するための「異常な人間」が必要だ。多き人々は自分たちが正常な人間になりたいがために、いつも少なく力のない人々を異常者だと仕立て上げ、相対的に自分は正常な人間となり心を安心させようとする。多き人々はいつも強い。それは数の力で少なき者たちを無理矢理屈服させることができるからだ。少なき者は多き者たちの犠牲者となり、見下され、蔑まれ、生きづらい世の中を、まるで冷たい川の流れを遡上するように必死で生き抜いていく他はない。しかし少なき者たちは見抜いている。多き者たちの欺瞞を見抜いている。少なき者たちは真理を知っている。多いことは決して、正しいことなんかじゃないと。
相対的な正しさの宿に安住して、迷妄の世界を彷徨い続ける多き者たちを置き去りにして、ぼくたち少なき者は相対性の波から抜け出して、絶対的な幸福への扉を叩こう。ぼくたちは異常者になった。ぼくたちはおぞましくなった。ぼくたちは変態になった。ただ純粋に心から人を好きになったことで、ぼくたちはことごとく否定され打ちひしがれた。
全ては多き者たちの浅はかな企みだった。自分たちが正常になりたいがために、他人を貶めることのできる無慈悲な者たちの攻撃だった。そして当然ぼくたちは負けた。少なき者はいつも多き者に支配され、服従した。せっかくもらったこの尊い生命の全てを世界へと表現することすら許されずに、ぼくたちは隠れるように静かに生きるしかなかった。どんなに重き荷を背負っていても、他人には見えなかった。どんなに心を引き裂かれるような痛みを経験しても、普通に生きていると思い込まれた。全てはこの世の変え難き習わしだった。ぼくたちはここにいるよと、語る言葉さえ取り上げられた。
多き者たちに復讐することはやめよう。彼らはまだ迷っている。相対的な幸福しか見出せずに、自分がどこへ行くべきかもわからずに彷徨っている。放っておいても救われることはないだろう。彼らを通り抜け、先へ急ごう。ぼくたちには行くべき世界があることを、他でもない少なき者たちが知っている。この世でことごとく傷ついた者だけが、その鍵を持っている。
・大学時代の2番目の恋について
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