「人間は子孫を残すために生きている」「人生の目的は子孫を残すこと」は間違っているとぼくが感じる理由

 

人間は子孫を残すために生きているのだろうか。

「人間は子孫を残すために生きている」「人生の目的は子孫を残すこと」は間違っているとぼくが感じる理由

・「人間は子孫を残すために生きている」というのは本当か?

「人間は子孫を残すために生きている」と言う人々がいる。果たして本当にそうなのだろうか。どうしてすべての人間の生きる目的は、子孫を残すためだと言い切るに至るのだろうか。

確かに多くの人々は子孫を残すような行動を起こすようにできている。男は発情し、女の肉体を求め始め、女も発情し、受け入れるべき男の肉体を探し始め、やがて男と女はつながり合い、新しい生命が誕生する。そのようにして多くの人々が子孫を作っていくことは、ごくありふれたこの世の風景だ。

しかしだからと言って人間が生きる「目的」が子孫を残すことだなんてどうして言い切れるのだろうか。子孫が残るのは、「結果」ではないだろうか。肉体が成熟してがムラムラと発情し、やりたいと思っていたことを我慢せずに思いのままにやっていたら、なぜだか知らなけれどたまたま赤ちゃんができちゃったという、思いがけない「結果」に過ぎないのではないだろうか。

子孫が残るのは思いがけない結果であり、本当はぼくたちは気持ちいいことをしたい、満足感を得たい、幸せな気持ちに浸りたい、野生の炎が指し示す自分の衝動に身を任せたいなど、正直な願望を実現させるために生きているのではないだろうか。子孫が残るというのは、願望を実現させ幸福感を得るという人生の目的からたまたま生まれる結果という副産物ではないだろうか。その結果を目的だとすり替えるところに、人間たちの大きな勘違いが生まれる。

 

 

・数学が得意な人は100点を取るために勉強したわけではない

たとえば数学にとても興味を持ち、数学の問題をたくさん解きたいと心から願う学生がいたとする。彼の目的は面白い数学の問題をたくさん解いて幸福感に浸ることなのだから、とにかく全ての問題集の全ての問題を解きまくり、数学の問題に触れられることを喜ぶ。その結果として彼は数学が得意になり、数学のテストで100点を取った。彼の栄光について人々が噂するのは「彼は数学で100点を取るためにとても努力したんだね、とても偉い子だ」という内容だった。

俗物的な人間というものはよくこのような間違いを犯す。彼は何も100点を取りたくて数学の勉強を頑張っていたわけではないのだ。彼の目的は数学の問題を解いて数学を楽しむことの中に幸福を見出すことだった。数学が得意になり、数学のテストで100点を取ったことは、その結果の単なるひとつに過ぎなかったのだ。それなのに周囲の人間たちは、自分が数学の勉強をするのが嫌いだからと、彼も幸福になるために数学の勉強をしているわけはないと思い込み、数学を楽しむという彼の人生の目的を推し測ることができないばかりではなく、彼の結果を目的と勘違いし、彼という人格や性質を全く把握しきれないのだった。

人間というものはよくトンチンカンに、人生の目的と結果を混同する。これは中学高校と6年間学年1位をキープし続けたきたぼくが、学問の得意な本人の感性と世間の評価との間にかなりのギャップがあると感じたことから想起された一例である。確かにテストでは高得点を叩き出したし最もよい1位という成績を収めたが、それは高得点を取ったりよい順位を取ろうと必死に頑張ったからでは全くなく、集中して学問をすることが楽しかったし、心満たされたし、そこに一種の幸福を見出したから学問を続けた結果として、たまたま高得点や1位という順位がついてきただけでのことである。学年1位というのは誇らしくインパクトのある現象とされているので目立ちやすく、称賛もされやすいが、それは学問に没頭した幸福の結果のほんの一部に過ぎず、学年1位という目立つ称号が全ての結果であることは決してない。

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・人生の目的は願いを実現させること、幸福になることだ

人生の目的は願いを実現させること、幸福になることだ。その結果として子孫ができる人も多いが、もちろんできない人もいるだろう。たとえば快楽を得て幸福になりたいからと男と男が交わり合っても、子孫はできまい。それは女と女の場合も同様である。人間はみんな同じ「願いを実現させたい」「幸福になりたい」という気持ちを持ちながら生き、それに従ってしばしば肉体を交わらせるが、その結果として子孫ができたりできなかったりもするのだ。しかしあまりに子孫ができるという結果が多いために、またその結果が人類の発展に寄与するために、「人間は子孫を残すために生きている」のだという結論へと生き急いでしまうが、それはたまたまその結果が多いというだけであって全てではなく、当然人生の目的でもない。

人生の目的は願いを実現させること、快楽を得ること、幸福になることだ。しかし自分たちがそれを叶えようとするあまりに、丸裸になってまるで動物か獣のように必死に肉体を貪り合うことに後ろめたさが生じ「自分たちは今このようにかなり恥ずかしい格好をして非常に破廉恥な行為を行なっているけれど、それもこれも全ては人類の繁栄のため、子孫を残すという”人生の目的”のためなのだから、今のこの極めて恥ずかしい状態も正当化され許されるだろう」という合理化のために、子孫を残すことを人生の目的に仕立て上げたということも考えられる。けれど結局のところ彼らの目的は単なる快楽を追求することであり、子孫はその副産物の結果に過ぎない。

 

 

・「人間は子孫を残すために生きている」と間違うことで多くの人が傷つき始める

「人間は子孫を残すために生きている」という目的と結果の取り違えが起こると、人間社会には悲しいことが起きる。それは子孫を残さない人を心の中で非難するようになってしまうことだ。「人間は子孫を残すために生きているのに、なぜ男と男で意味のない交わりを続けているのだろう」「人間は子孫を残すために生きているのに、独身のままでいるなんて異常だ」「人間は子孫を残すために生きているのに、あの人は精子を生産できない体だなんてそれは欠落だ」などと子孫を残さない人を許せなくなり、心の中で見下してしまうようになる。つまりそれは、この世には間違った人間がいるという思想が蔓延してしまうことを意味する。

間違った人間なんて、この世にいるのだろうか。確かに「人間は子孫を残すために生きている」という思い込みを信じるのならば、この世には間違った人間がいるのかもしれない。しかし「人間は子孫を残すために生きている」という思想が勘違いだというのは、今まで見てきた通りだ。人間は幸福になるという人生の目的を遂行しようとして、たまたま子孫を残すだけだ。たまたま残すだけなのだから、もちろんたまたま残さないということだって大いにあり得るし、それは正常な結果だ。子孫を残さないということは、子孫を残すのと同じくらい自然なことだし、それを間違いだと指さすことは間違いであると断言できるだろう。

 

 

・この世には間違った人間なんていない

この世には間違った人間なんて生きていないというのが、ぼくの意見だ。何かしらの思い込みや洗脳や制度に照らし合わせて考えたならば、「間違い」や「欠陥品」だと見なされるような人間もこの世にはいることだろう。しかしこの世に生きている人を「間違い」や「欠陥品」だと判断してしまうのだとしたら、その洗脳の方が間違っているのではないだろうか。

おかしな思い込みや洗脳を脱ぎ捨てた時、ぼくたちの生命にはそれぞれに「役割」や「使命」があることがわかってくる。子孫を残さない人には子孫を残さない人の役割が、珍しき人には珍しき人の役割が、他と異なる人には他と異なる人の役割がきちんと用意されていて、浮世の悪意に飲み込まれずに曇りなき瞳を見開き、自らの生命に課せられた使命を見定めることこそ、ぼくたちの幸福への道ではないだろうか。

「この世には間違った人間なんていない」と信じることから、ぼくたちは人生を始めるべきだ。どんなに意味のない人生を生きているように見える人でも、どんなに罪深き日々を重ねてきた人でも、世の中に災いしかもたらさないように感じられる人でも、たとえ悪人であろうと慈しみの心をもってその魂と触れ合うべきだ。あらゆる魂には必ず清らかな側面があり、清らかな部分と穢れた側面を同時に見定めることにより、生命の根源から発せられる使命の声が聞こえるだろう。

「この世には間違った人間なんていない」という慈しみは、「この世には正しい人間なんていない」という戒めへとつながる。あらゆる生命は正しくもなく間違いもなく、正しくもあり間違ってもいるその神聖な中間地点に位置しながら、矛盾に引き裂かれるようにして人生を生きていく他はない。

 

 

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