ドラえもん「未来に目を向けなくちゃ!」
ドラえもん「あの日 あの時 あのダルマ」で哺乳瓶に吸い付き懐かしさに浸るのび太をぼくたちは笑い飛ばすことができるだろうか
目次
・誰もが懐かさしさを求めている
世の中には、よく「昔はよかった」と言う人々がいる。昔の時代の人の心や、文化や、風景が懐かしく、過ぎ去った日々が愛おしく感じられるようだ。それにひきかえ最近の時代のものは何に関しても心に染み入るものが極端に少なく、なんてつまらない世の中になってしまったのだろうと嘆き悲しみ、ぼやいてしまうわけである。そのような種類の人間は大人になれば一定数出現し始め、年を取るごとに増加傾向にあるようにも見受けられる。
過去をなんだかよかった時代のように感じ、それに比べてなんだか今という時代はさみしいと感じるのは、多少の程度はあれど、誰にでも起こる感情ではないだろうか。今を否定してしまう必要はないけれど、過去がとても懐かしく、とても愛おしいという感情は、人間ならば誰もが持っている共通項であるような気がしてならない。
最近では、「ミュウツーの逆襲EVOLUTION」という20年前のポケモンの「ミュウツーの逆襲」の3Dリメイク映画が上映され、話題になっている。20年前ポケモンアニメを見ていた子供達にとってはお馴染みのカスミやタケシといったキャラクターも再登場し、またミュウツーやミュウの声も20年前と同じ、さらには主題歌も小林幸子の同じ歌と、まるで20年前そのままのように忠実に状況が再現されており、今の子供達よりも20年前の子供たちの方をターゲットにしているのではないかと思われるほどだ。そして実際にインターネットの様子を見ていると、20年前の子供達はこの上映に感動しているようである。
それほどまでに、子供時代が懐かしいと感じる気持ちが人の心を突き動かす力は強力なようだ。そして人の懐かしさを求める気持ちが、大きく経済を動かしていると言っても過言ではないだろう。最近ではこのポケモン映画の他にも、セーラームーンやドラゴンボールなど、ちょうど20年前の子供達が夢中になった作品たちを次々にリメイクし直し、今となっては段々と経済力をつけてきている20年前の子供達をターゲットにした作品は、世の中に溢れているように見える。
人々は懐かしさを感じ、子供時代に帰ったかのように感じられる作品、昔に戻ったかのように思われるものたちに夢中になり、消費は高まる。まるで彼らが子供時代に夢中になったのと同じように、今の時代になっても懐かしさを求め、同じものに夢中になりたがる。
・懐かしい心は人を癒す力を持つ
人々はどうしてそれほどまでに懐かしいものに夢中になれるのだろう。それは単なる、今生きている時代や世界に対する不満からの反動や、今うまくいっていない自分を慰めるための現実逃避に過ぎないのだろうか。しかしたとえ人生がうまくいき、今生きていることが楽しい人々にとっても、懐かしいものに出会えた瞬間の感動や嬉しさの程度は、うまくいっていない人と変わらないほど大きいものだろう。いかなる人々にとっても、懐かしさとの巡り会いは歓喜に満ちているものだ。
心理学上の用語として「退行」というものがある。自分自身の心を過去の自分へと戻してやり、自分の心を癒すという精神防御作用だ。自分を懐かしい過去の次元へ帰してやることで、自分自身が癒されることができる。懐かしさにはやはり不思議な力がある。
退行は程度が大きければ社会で生きにくくなってしまうものの、小さな程度の退行ならば、実はぼくたちは誰でもそれを日常生活で行なっている。睡眠や食事など、ぼくたちが生きていくために必要不可欠な行為がそれであり、ぼくたちは日常生活のごくありふれた行為によって、自分自身を懐かしさの海へと帰し、自分自身を日常的に癒している。このような苦しみの海のような世の中でも、なんとかしぶとく生き延びていられるのは、懐かしさに救済されているからなのかもしれない。
・ドラえもん「あの日 あの時 あのダルマ」
しかし日本の作品の中には、懐かしんでばかりいることを否定するような作品も多数存在する。アニメドラえもんの「あの日 あの時 あのダルマ」もそのひとつだ。
ドラえもんが出してくれた「なくしもの取り寄せ機」によって、次々と過去に失くした懐かしいものたちを取り寄せりのび太くん。やがては赤ちゃん時代の哺乳瓶まで取り寄せ、その中に牛乳を入れて吸い付きながら哺乳瓶の感歯ざわりを懐かしむという、小5にしてやばい奴になりかかっていた。そして「あの頃はよかったなぁ、勉強勉強って追い立てられることもなかったし…」と哺乳瓶を吸いながら、懐かしさに思いを馳せるのび太くん。
当たり前だが、それを見てドラえもんはえらく心配する。ぼくも目の前に哺乳瓶を吸っている小5がいたらえらく心配することだろう。ドラえもんは「あのね、過ぎた日を懐かしむのもいいけど、それはもっと大きくなってからでもいいんじゃない?他にもっとやらなければならないことがあるよ。そんなことばかりしてないで、未来に目を向けなくちゃ!振り返ってばかりいないで、前を見て進まなくちゃ!」と言ってお説教をする。
それに対しのび太くんは「お言葉ですけどねぇ、ぼくの未来なんてどうせろくでもない未来に決まってる!ジャイアンたちにいじめられて、ママにはガミガミ叱られて、これからもきっとそうに決まっている。ああいやだ!ぼくの未来はお先真っ暗!!頭は悪いし、何をしても失敗ばかり。ああ!ずっと子供のままでいたいなぁ、いつまでも」と未来に絶望する。ここには、過去を懐かしんで未来へ前進することを拒否するのび太と、懐かしむことを否定し、未来へと突き進むべきだというドラえもんの構図が浮き彫りになっている。
結果的には、のび太はおばあちゃんからもらっただるまを見つけ、おばあちゃんからの言葉を思い出し、おばあちゃんとの約束どおり、未来へと目を向けてしっかりと進んで行くという涙なしには見られない感動的なめでたしめでたし話となる。最終的に簡潔にまとめると、過去を懐かしむことが悪で、未来へと目を向けることが正義で、そしてのび太くんの中で未来を向くという正義が勝利し、未来へ突き進む正しい結果となったのび太くんという話の構造になっている。
この話からも、なんとなく、過去を懐かしんでばかりいることは悪いことだということを伝えたいという雰囲気が漂ってくる。しかし、未来へとしっかり突き進むには、しっかりと深く、過去の懐かしさを見極める必要があるのだという教訓にも聞こえる。
・クレヨンしんちゃん「オトナ帝国の逆襲」
クレヨンしんちゃんの映画の中で名作だと名高い「オトナ帝国の逆襲」では、もっとあからさまに懐かしむことを悪であると見なす傾向が強い。なんせ敵として出てくる「イエスタデイ・ワンスモア」という組織は、21世紀の今の時代に嫌気がさし、昔はよかったと過去を懐かしみ、世界全体を懐かしい匂いで包み、その匂いによって世界を20世紀という過去へと巻き戻そうと策略していたのである。
大人たちはその懐かしい匂いの虜になり、しんのすけの両親のみさえやひろしをはじめ、すべての大人は過去を懐かしみ、戻りたいと願い、そして悪の組織に操られることとなる。子供達は「懐かしい」という感覚をまだ知らないので、懐かしさの匂いに惑わされないでいる。風間くんは「懐かしいってそんなにいいものなのかなぁ」と大人たちの気持ちがわからないようである。
そんな感じで、子供VS大人、懐かしがらない者VS懐かしがる者、未来VS過去という構図で話が進んでいき、結果的にはひろしやみさえも未来を生きたいと願うようになり、未来を生きたい野原一家VS過去を生きたい悪の組織という対決へと移り、最終的には未来を強く生きたいと願ったしんのすけの活躍により、世界は過去を退け、未来を手に入れたという物語となっている。この物語の根底にあるものは、過去に執着するのは悪であり、未来を目指すという姿勢が善であり、そしてその二つが対決し、結果的に善的な未来が勝利するという思想だ。ここでもやはりドラえもんと同じように、未来へと向かうことが善であり正義であると力強く描かれている。過去を懐かしむということは、みすぼらしく、愚かであるという思いを感じ取ることもできる。
しかし、映画の中ですべての大人たちが懐かしさの匂いの虜になったように、すべての大人にとって、過去や思い出、故郷や懐かしさは、何ものにも代え難い美しい宝物のようなものなのだとうと想像することができる。そうでなければ、すべての大人が映画の中のように、懐かしさに翻弄されたりするのだろうか。そしてその懐かしさが心に底通しているからこそ、大人たちはしっかりと今の時代を力強く生きていけるのではないだろうか。
未来をしっかりと生き抜くには過去や懐かしさの力が確かに必要だ。ぼくが他の人々とは違ってこの映画をそんなに名作だと思えないのは、過去を懐かしむことを悪役に仕立て上げた結果、未来のために過去を大切にするという人間としての情緒が、この映画には欠けているからではないだろうか。過去を懐かしむという心を悪役として退けてしまっては、すなわち懐かしいという匂いを捨て去ってしまっては、本当の未来なんてやって来ないのではないだろうか。未来=正義、過去=悪という二元論でとらえて対決させれば、話は簡単に終わり民衆もそれなりに納得するのだろうが、真実の世界はこのように単純な構造ではないのはないだろうか。
・岡潔「春宵十話」〜真理は懐かしさに満ちている
日本の偉大な数学者の岡潔は著書の「春宵十話」の中でこのように言っている。真理は“懐かしさの手触り”がすると。ぼくはこの言葉がひどく好きである。
彼がこの本の中で何度も強調しているのは、懐かしさ、故郷、そして情緒の重要性である。そしてこの国の中で昔から綿々と引き継がれている、情緒の感性を保っていく必要があると警告している。そして情緒の母は大自然にこそあるとも言っている。
“真理は懐かしさの手触り”とは、実に言い得て妙である。普通なら真理というものは、宗教や学問や哲学の先にでもある、崇高で普遍的な境地とでも言われそうなものだ。しかし彼は、真理とは懐かしさという情緒の中に潜んでいるのだと推測する。人間がたどり着く真理なんて、所詮その人の個人的な思い出や故郷、懐かしさの中に保たれていた、情緒の味わいという極めて個人的な感触なのかもしれない。
・ぼくたちは決して過去へと帰れない
“おかしいことにナマモノは
後ろへ進めない
なりふりも構いもせず
先へ向くようにできている
サメよ サメよ 落し物の多い人生だけど”ー中島みゆき「サメの歌」より
どんなに昔を懐かしんでも、どんなに過去を心から求めても、思い出そのままの過去を取り戻すことはできない。ぼくたちナマモノは生きている限り、未来へしか進めないようにできているのだ。過去へと戻れないのは、生命が生きている仕組みである。せいぜい手の届かない過去の模造品を現在の中にさがして弄りながら、自分自信を慰める他はない。
ドラえもんやクレヨンしんちゃんが、そんなに過去を懐かしむことの危険性を警告し、過去を敵視し未来を正当化しなくても、心配することはない。ぼくたちの時間は未来へしか進めない。どんなに求めても、ドラえもんがやってきて、過去へと巻き戻してくれることなんてありえないのだ。それと知りながら全ての人々は、せめてもの慰めに偽物の過去を慈しんでいるだけだ。未来は何もない透明な真空から生じるわけでなかく、積み重なった過去から生じる。
“わかっているのは 昨日へ戻れないことだけ”ー中島みゆき「移動性低気圧」より
苦しみの海と呼ばれているこの浮世を、天寿の限り全うするために、ささやかな懐かしさの匂いを受け取ることくらい、可愛いと笑ってゆるされるべきではないだろうか。過去を悪に仕立て上げ、敵とすることは、過去から成り立っている未来をも否定し、悪として敵と見なすことと同様だ。そこに真理の光が照らされることは、決してないだろう。