有名になって歴史に名を刻みたい!!!!!
死んだらすぐに忘れ去られるからこそ、あなたの生命は清らかで美しい
目次
・太陽は膨張しいつの日か地球を飲み込む
ぼくが小さい頃テレビで見て衝撃的だったのは、太陽はいつか膨張して地球を飲み込んでしまうのだという映像だった。テレビが言うには何万年、何億年先のことになるかはわからないが、太陽が膨らんで地球を飲み込んで地球がいつかなくなってしまうというのは絶対にそうなるのだそうだ。決まっているのだそうだ。映像には太陽が赤々と自らの暴走を止めることができずに、地球が飲み込まれ消滅してしまう様子が映し出されていた。多分NHKか何かの真面目な科学的な番組で、決しておちゃらけた馬鹿馬鹿しい民放の雰囲気ではなく、その映像は真剣だった。
絶対に地球が膨張した太陽に飲み込まれてしまうのならば、そして全ての地球上の生命が消滅してしまうというのならば、どうしてぼくは今ここに生きているのだろう。その疑問は寝ても覚めても幼いぼくの脳内を支配し、なぜ自分がここに生きているのかという自問自答の日々が始まった。
・自分はなぜ生きているのかという幼き日の疑問
「自分はなぜ生きているの?」とお父さんとお母さんに尋ねてもみたが、頑張って生きていればいいことがあるのだよとくだらない返答しか帰ってこなかったので、幼かったぼくは大人に頼るのをやめて自分で考えざるを得なかった。それにしても不思議だ。どうせ未来には太陽に飲み込まれて滅んでしまうのに、どうして一生懸命生きなければならないのだろうか。
もちろん地球が太陽に飲み込まれる時代にぼくが生きているはずはなく、それは果てしなく遠い未来のことなのだが、絶対に太陽が地球を飲み込むと決まっていることが気がかりだ。それならば生物たちは、未来に自分の遺伝子を残そうとせっせと分裂したり生殖したりしながら子孫を作ることに躍起になっているのに、そんなもの全て太陽の膨張に破壊され無意味に帰されるではないか。それならば無駄だから、最初から遺伝子なんて残さなくてもいいのでは???
・どうせ死ぬのにどうして一生懸命生きなければならないのか
人類はいつか太陽に飲み込まれ滅亡するというのにどうして存続するために頑張らなければならないのかという壮大な疑問は、どうせ自分は死ぬのにどうして生きていかなければならないのかという個人的で身近な疑問とも連結し、さらに幼いぼくの脳を困らせた。どうせ死ぬのに、どうして生きていくのだろうか。
最も単純で誰でも思いつきそうな答えは、子孫を残して生命を次世代へと繋いでいくためだという意見と、さらにはこの一生で何か大きなことを成し遂げて後世にまで名を残すためだという意見である。もちろん幼いぼくも一旦はこの意見を通り過ぎた。
しかし前者は太陽膨張地球滅亡が判明している時点でもはや無意味な意見だし、後者の意見はどうも胡散臭い。どうせ死ぬのに自分が今必死に生きているのは、何か大きなことを成し遂げて歴史に名を刻み、後世に名を残すためだという、世の中でわりかし信じられているその人生の目標は本当に人の生命の目的として正しいのだろうか。
・有名になって後世に名を残した方がいいというのは本当か?
そもそも後世に名を残したいと思っている時点で、時間の把握のスケールが小さすぎるとぼくは思う。偉大なことを成し遂げて、一体何年後まで覚えてもらうつもりなのだろうか。100年後、200年後ならばうまくいけばまだ叶えられるかもしれないが、1000年後、2000年後となるとそんじょそこらの人間にはかなり厳しいのではないだろうか。立派だと散々言われ続けているお釈迦様やキリストでさえ正確で克明な言い伝えすらほとんど残っていないこの人の世の中において、1000年を超えて記憶されるなんて至難の技だろう。
そしてどんなに歴史に名を刻んでも、どんなに後世に名を轟かせても、絶対に名というものは消えてしまうと決まっているのだ。記憶というのは、忘却されると最初から決まっているからこそ記憶なのだ。エジソンだってベートベンだって、孔子だってお釈迦様だってキリストだって天皇だって、”永遠に”記憶されることなんて不可能である。地球が太陽に飲み込まれる運命にある限り、必ずどこかの時代において忘却される運命にあるのだ。どうせいつか忘却されるのならば一体なんのために後世に名を残すのかという、ぼくの究極を求めてしまう思考がまた発動し、その無意味さを思い知らされる。
・歴史に名を残せば逆に真実から遠く離れゆく
ぼくは今四国お遍路車中泊の旅をしているが、もちろん弘法大師に関する伝説や言い伝えが山ほどある。しかしはっきり言って、その全てが本当であることはないだろう。歴史に名を刻む、後世にまで名を残すというのはそういうことだ。
本当のことでもないのに、歴史に名を刻んでしまったばっかりに後世の人々から様々に根も葉もない噂をされ、作り話をされ、この世に生きた本当の燃えるような生命と魂が他人によって穢されてしまう。全くの嘘偽りを噂されても、死後だから反論したり主張することもできずに泣き寝入りして、人々の信じる自分が真実の自分の姿とはかけ離れていくことを諦めて見守っていくしかない。
もしも、もしも誰にも覚えられない人生だったならば、もしも誰にも語られない人生だったならば、もしも誰からも見向きもされない人生だったならば、もしも誰からも見捨てられた人生だったならば、勝手に見ず知らずの他人によって自分の偽の姿を付け加えられたり削ぎ落とされたりすることもなく、安らかに時の川を渡っていけたのに。そしてまさにそのような、覚えられない人生こそが、誰にも邪魔されず、誰にも穢されない清らかな人生と言えるのではないだろうか。
・すぐに忘却される人生こそ記憶という穢れを免れた美しき生命だ
ぼくたちはたまに自分の人生を振り返っては、何ひとつ大きな成果を成し遂げられなかったということ、自分の人生が誰からも気にもされていないこと、たとえ自分が死んでも何の支障もなく世の中が回り続けることに悲しみを覚え、深く絶望する。もしも誰もが自分を知っているほどに世の中で有名になれたならば、もしも死後でさえ誰かに記憶されるような立派な人生を送れたならば、自分の人生も少しはマシなものだと思って死ねるのにと後悔する。
しかし後世にまで覚えられることは、どうせ忘れ去られるまでの穢れなのだ。自分が死んだ後でさえ、勝手な他人に自画像を思い通りに滅茶苦茶に汚されてしまうくらいならば、そして真実の生命とかけ離れてしまってもなお、偽物の自分自身として人の世に誤って君臨してしまうというのなら、名もなき者として潔く時の濁流に紛れてこの世の記憶から消え去った方が、健康的で美しいというものだ。後世に忘れされられてしまうことは、悲しみでもなければ無念でもない、自然で、慈悲深く、清らかな生命の在り方だ。
ぼくたちは死んでからすぐにでも忘れ去られてしまう自分自身の生命を、失敗作だとか駄作だとか嘆く過ちを即刻中止し、どこまでも忘却に包まれた慈悲深い光として自分自身の生命と人生をとらえ、胸をはって誇り高く限られた日々を歩んでいくべきである。