ぼくたちは人間という衣を脱ぎ捨てて獣のように生きるべきだ

 

ぼくたちの正体は獣。

ぼくたちは人間という衣を脱ぎ捨てて獣のように生きるべきだ

・ぼくたちは動物ではないという呪い

ぼくたちは人間社会の中で、とても人間らしく生きて他者から信頼されなければならない。とても人間らしいということは、およそ自分が動物だと気づかれないということである。硬直した人間通しのやりとりの中で、ぼくたちは人間らしく、文明的に、合理的に、科学的な様子を相手に見せつけて、相手の信頼を勝ち取らなければならない。

まさか自分が動物のように毎日排泄という汚れた行為とか、極めて動物的な生殖という活動に携わっているなんて相手に感じ取られてはならない。ぼくたちは「自分は動物ではない」という嘘をつき通しながら、この浮世を渡っていくことが求められている。

しかしそれは人間誰もに共有された嘘でもある。人間はみんな人間らしく、きちんとした衣服を見にまとい、美しく髪を整え、文明的な作法を取り入れて、他者に自分は動物ではなくしっかりとした人間であるということを潜在的にアピールしようとする。しかしその衣服の下には誰もが生殖器を隠し持っており、そこから排泄や生殖を行い、隠れて動物のようにして生活しているということを誰もが知っている。なぜなら人体の構造や人間の生活の営みは皆同じであり、自分がそのように日常的に本当は極めて動物的に暮らしているということを、他ならぬ自分自身が知っているからだ。自分がこのように極めて動物的に暮らしているというのに、同じ人体を持っている他者たちが、同様に動物的でないことがあるはずがない。

「自分は動物ではなく人間だ」というのは、誰もが嘘だと瞬時に暴いてしまうのに、それでもあらゆる人々が社会でつき通してしまう嘘だ。これほどに誰もが嘘だと端からわかってしまっている嘘が、他にあるだろうか。そしてその嘘に対して性的に興奮する種類の人間もいるし、大概の人は「自分は実は動物だ」「お前も本当は動物だ」という、誰もが分かり切った事実を暴露することで相手と自分の心を解放させコミュニケーションを円滑に保とうとする。その技術は下ネタと呼ばれ、人間社会で安易に多用される、知識も工夫も要らない人間にとって根源的なツールだ。

ぼくたちの運命は、自分をきっちりとした人間らしく見せつけることにあり、自分の正体である動物性、本当は自分の中に住んでいる獣を隠し続けることにある。それは言い換えれば、人間社会で表面上の偽りの仮面で常に顔を覆い続けなければならないという運命だ。すでに誰もに暴かれている嘘を、いつまでもつき続けなければならないという矛盾した運命。そのような運命に、人々は今も昔も抜け出せないで違和感を覚えている。

 

 

・椎名林檎「獣ゆく細道」

自分自身を、人間が作り出した「人間」という枠組みから脱出させ、獣のように世界を突っ走って行こうと鼓舞する素晴らしい歌がある。椎名林檎の「獣ゆく細道」という歌だ。

人間たる前の率直な感度を頼っていたいと思う そう本性は獣
丸腰の生命を今 野放しに突っ走ろうぜ

行く先は事切れる場所 大自然としていざ行こう

なけなしの命がひとつ どうせなら使い果たそうぜ
悲しみが覆いかぶさろうと 抱きかかえて行くまでさ

借りものの命がひとつ 厚かましく使い込んで返せ
さあ貪れ笑い飛ばすのさ 誰も通れぬほど狭き道を行け

 

(この記事は著作権法第32条1項に則った適法な歌詞の引用をしていることを確認済みです。)

またこの歌は自分の野性を解放していこうという潔さと共に、他者と群れて協調するべき大多数のメジャーな道を退き、アウトサイダーとして自分を表現しながら少数派として命の限り生きていく魂たちへの共感に満ちている。

 

・高畑勲「かぐや姫の物語」

高畑勲監督の遺作であり最高の名作「かぐや姫の物語」で、ぼくが印象的だった主人公のかぐや姫のセリフがある。それは、常識やしきたりを自分の感性を通して本当にそうなのか疑って生き自分の感性の通りに生きようと務めるかぐや姫に対して、常識やしきたりに常に従いそれをかぐや姫に押し付ける翁との葛藤の後に、彼女が月へと帰らなければならないと決まって自分の地球での人生を後悔しながら悔しそうにうつむいて言う一言だ。

ああ私は、生きるために生まれてきたのに、、、鳥や獣のように!

この発言からは、かぐや姫が幼少期に大自然の山奥で翁と嫗と近所の子供たちと心のままに暮らしていた時代への憧れが凝縮されている。そのような幸せな時代を踏みにじり、無理矢理京の都へと引っ越しするのを決めたのも翁だった。翁は竹から財宝や麗しい衣が次々に出てきたのをきっかけに、これはかぐや姫を京都へ連れて行き、立派な屋敷に住んで裕福な暮らしをさせ、家柄のよいところへ嫁ぐように取りはからえと天が命じているのだと思い込んだのだ。そしてそれこそが、愛しいかぐや姫にとっての最高の幸せになると彼は信じていた。

一般的には、お金持ちになり裕福な暮らしをすることは幸福jへの道だとらえられるだろう。しかしかぐや姫はそのような常識に侵食されることはなかった。彼女はその生涯にわたって、大自然の中で動物たちや友達と共に、まるで鳥や獣のように自由に生きていた日々に憧れを抱いていたのだ。

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・禅の十牛図

禅の教えを表現するものとして十牛図というものがある。そこには悟りへと至る境地が、10の牛の絵を用いて表現されている。自分と他者の区別すら忘れてしまう、悟りの境地のような「人牛倶忘」。しかし悟りとはまだまだその段階では終わらない。自分と他者の境界線を消し去った後にさえ立ち現れて来る世界がある。それが大自然へ帰って行くところの「返本還源」だ。

ぼくたちは人間はその他の自然の生物とは違い、何か特別な生物だという誇りを持って生きている。人間は哺乳類なのに「人類」などと、自分たちだけは特段違った性質を持つものだと区別し、境界線を敷き、その他の自然と自分たちを区別している。しかし真実は、他の自然と何ら変わるところのない大自然の一部としての存在なのだ。

ぼくたちがどんなに知識を身につけようとも、どんなに賢く振舞っても、よく見てみれば結局は、自然の中で生まれて食べて寝て排泄して生殖して老いて病んで死ぬだけの他の動物と何の変わりもありはせぬ。ぼくたち衆生が目指しているはずの「悟り」は終着駅ではなく、その先には自分自身が大自然へと帰る道が広がっている。そのように感じれば、ぼくたちは悟りを開くことを決して恐れる必要はないだろう。

ぼくたち日本人は本来、自然を神様だと見なし崇め奉ってきた。あるときは石に、あるときは木に、あるときは清らかな水に祈りを込め、聖なる石や木や水があるところは祈りの場所として神社の役割を果たすことになる。神社の前段階の素朴な祈りの場は、沖縄県の「御嶽(うたき)」という聖地に見出すことができる。ぼくたちのご先祖様は大自然に向かって祈り、そしてその感性が今の日本人であるぼくたちにも引き継がれているからこそ、「悟り」と言う異国からやってきた仏教の思想と言う異物の先に、ぼくたちに馴染み深い「大自然」が待っていてくれるというのなら、心も安らかになりゆくことだろう。

 

・ぼくたちは獣のように生き大自然へと向かおう

 

ぼくたちは”人間らしく”生きなければならないという同調圧力や他人の目にさらされ、大自然の一部としての自分を解放できずに違和感を覚え続けて人間社会を生きている。

ぼくたちはすなわち大自然であり、大自然はすなわちぼくたちだ。人間と大自然を切り離して考え、隔たりを設け、濃厚な境界線を引き続けるという呪いは、知らず知らずのうちのぼくたちの生きる力を奪っているのかもしれない。ぼくたちが目指すべきところは、ぼくたちを支配している境界線の融解である。しかし境界線に支配された人間社会においてこれを成し遂げることは容易ではない。それぞれの人がそれぞれに合った境界線融解の方法があるのだろう。ぼくにとってそれは”旅”だった。

しかし十牛図は大自然に帰る「返本還源」ではまだ終わらない。大自然へと帰り、獣のような生き様を描くことによって、さらなる人間の精神の高みへと登りつめるための準備をすることができるだろう。他人の目を気にしては成し遂げられない、空気を読んで世界に都合のよい人間であっては達成できない、大自然はこの世における清らかな秘境だ。そこへとたどり着くためには傷だらけになる他はないだろう。

 

敢えて生きにくい道を進み、敢えて死に近い生き様を描き、ぼくたちは大自然へと到達しよう。

 

 

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