ノンケに切ない片思いの恋をするゲイが読みたい百人一首の歌5選

 

ノンケに切ない片思いの恋をするゲイが読みたい百人一首の歌5選

・学校で習う百人一首が面白いというのは本当か?
・ゲイとしてノンケの男の子に片想いすることで、ぼくは百人一首の真価に気付かされた
・第89番「玉の緒よ 絶えねば絶えね 長らへば 忍ぶることも 弱りもぞする」
・第20番「わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」
・第40番「しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」
・第38番「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」
・第77番「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思ふ」

・学校で習う百人一首が面白いというのは本当か?

ぼくは中学生時代の国語の授業で百人一首を習った。その授業のまぁなんとつまらなかったことか!昔の人が詠んだ中でも最も優れた100首の和歌をより集めたというが、これのどこがいいのか中学生のぼくにはさっぱりわからなかった。例えば百人一首の勉強は、第一首目の天智天皇の次のような歌から始まった。

秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わがころも手は 露に濡れつつ

直訳すると「秋の田んぼの粗末な小屋に泊まっていると、屋根を葺いた苫の編み目が粗いので、夜露が上から落ちてきて、私の着物は濡れているよ」という意味になる。

この百人一首の第一首目を読んで、中学生のぼくには「ふーん」という感想以外思い浮かばなかった。だって秋の田んぼの近くの粗末な小屋で、着物が濡れたからどうだというのだろうか。昔の時代からすれば、このような情景も風流として映るものなのだろうか。これは秋の田で働く農民の様子を詠んだものだというが、天皇なのにささやかな農民の気持ちを詠んでいるという点が、きちんと全ての国民のことを見てくれているような感じがして好印象だということだろうか。

しかし中学生のぼくにとって重要なことは、百人一首の情緒を感じるということよりもむしろ百人一首のそれぞれを構成する古文の文法について学習し、また歌自体やその意味合いを記憶することにあったので、文句を言わずにただひたすらに勉強し、百人一首の知識を習得した覚えがある。しかしこの百人一首の知識が将来の役に立つであろうという手応えを一切感じることがなかったのも事実だった。

 

 

・ゲイとしてノンケの男の子に片想いすることで、ぼくは百人一首の真価に気付かされた

しかし人間というものは、生きていく中で様々な経験を積んで成長していくものだ。その過程で、感性が大きく移り変わり、感受性が豊かになり、これまで何とも感じなかったものに対して涙を流すほど感動したり、心を揺さぶられたりするということも珍しいことではない。ぼくにとって印象的だったのは大人になるにつれて、百人一首をものすごく面白く、そして味わい深く感じるように感受性が成長したということだった。

特に同性愛者のぼくにとって、同性愛者ではない同級生の男の子に恋をした高校時代や大学時代の経験は大きく、ぼくの精神構造を他にはない形で揺るがし、破壊され、0からの新たな再構築を余儀なくされた。ノンケの男の子への絶対に叶うことのない切なく苦しい片思いの恋愛経験は、ぼくの感性を他の人々とは全く異なる特別な形で変化させ、また特別な色彩に染め上げた。

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絶対に叶わないと思われた大学時代の片思いでは、不思議なことにノンケの親友と抱きしめ合ったり、好きだと交わし合ったり、キスしたり、触り合ったりするような恋人同士のような関係になることができた。しかし女の肉体をひたすらに求める彼の本能を止めることはできず、結局は傷つき合ったまま別れてしまった。魂が引き裂かれるような思いを経験した大学時代の恋愛は、ぼくの感性を最も大きく捻じ曲げた要素として記憶に残っている。

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しかしどんなに時代が違っても、同性愛者であろうが異性愛者であろうが関係なく、恋をするということは昔から切なくて苦しいものだったのだということを、百人一首の恋の和歌は教えてくれた。人間は一見進化しているように言えて、実は生まれて、老いて、成熟し、恋をして、生殖して、子供でも育てて、そして死んでいくという、その人生の根幹は古代から決して変わっていないのではないだろうか。百人一首の中のどのような時代においても等しく共感される普遍的な恋の歌を鑑賞していると、人間というものは実は何ひとつ進化などしていないのだろうと感じられてならない。

ここではゲイのぼくがノンケの男の子に片想いしたという特殊な恋愛の事例を通して形成された感性が共鳴した、百人一首の中の恋愛の歌を5つ紹介したいと思う。

 

・第89番「玉の緒よ 絶えねば絶えね 長らへば 忍ぶることも 弱りもぞする」

 

式子内親王による第89番の一首。

玉の緒よ 絶えねば絶えね 長らへば 忍ぶることも 弱りもぞする

「玉の緒」とは、命のこと。「私の命よ、絶えるなら絶えてしまえ」と歌の前半で切望する。そしてなぜ自分の命が絶えてほしいと願ってしまうのか、その理由が後半で説明されている。「私の命が長らえてしまえば、人に知られないようにしようと必死に隠していた力が弱ってしまい、この恋が世の中に知られてしまうかもしれないから」

男が男を好きになってしまっただなんて、絶対に知られてはいけない。誰に教えられるでもなく自然とそう危機感を覚えてしまうのは、思春期のゲイの悲しい運命だろう。せっかく人を好きになったのに、人を好きになることは素晴らしいことだとこれまでは教えられてきたのに、それなのに自分の恋心は異常であり、罪であり、悪であり、周囲の人々を困らせたり悲しませてしまうのではないかと、思春期のゲイの孤独感は一層深まる。

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日常生活の中でノンケを好きになってしまったならば、自分の恋心が叶う可能性は0に等しいわけだから、いっそ自分の中に押し殺して、隠し通して、なかったことにしてしまおうと人知れず自分の恋心と切なく闘う風景は、決して珍しくないのかもしれない。

自分の恋心が隠し通せなければ、自分が男を好きになる男だと周囲にバレてしまう。それにより今までの良好な人間関係が崩れ落ちる結果になるかもしれない。大好きな男の子にも嫌われてしまうかもしれない。ノンケに恋をしたゲイの男の子にとって忍ぶ恋、すなわち誰にも知られないように自分の中だけで隠し通す恋は、ごく一般的なものとしていつの世にも切なく存在し続けるだろう。

 

 

・第20番「わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」

 

元良親王による第20番の一首。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ

「わぶ」とは物事が行き詰まって悩み苦しむ気持ちを指す。「澪標(みをつくし)」とは、船の航路の目印に立てられた杭のことで、難波潟を印象付ける名高い光景とされた。歌の中の「みをつくし」は「澪標」と「身を尽くし」の掛詞となっている。歌の意味としては「行き詰まってどうにもこうにもいかないのだから、今となってはもう同じことだ。難波にある澪標ではないが、身を破滅させてでもあなたに逢おうと思う」

どのような時代に生きていたとしても人は一生のうちに一度か二度、我をも忘れてしまうような必死の恋をしてしまうものだろう。しかしその恋が男が男を好きになってしまうというような、どうにもこうにもいかない、叶いようもない恋だったならば絶望的だ。論理的や常識的には叶わないとわかっているような恋であっても、我を忘れるような生命の根源から迫り来る津波のような恋であったならば、ぼくたちは自分の身を滅ぼしても構わないと破滅的な行動に出てしまうことも十分にあり得る。

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自分がゲイだとバレてしまうかもしれない、社会的に抹殺されてしまうかもしれない、大好きな相手に心から嫌われてしまうかもしれない、体裁も信頼も何もかも失ってしまうかもしれない、そんな自分の生命すら危うくなるような状況でさえ「逢いたい」と自分を止められないような恋をすることは、多少相手に迷惑をかけるとはいえ、非常に価値のあることなのではないだろうか。人間は誰だって、自分の命を最も大切に感じるものだ。しかしそんな自分の命さえ滅ぼしてもいい、自分の命なんてどうでもいいから、そんなものは犠牲にしたって構わないから、せめてもう一度あなたに逢いたいと、切実に願ってしまう人生の経験は非常に意味深いものとなるだろう。自分の生命よりも大切なもの、自分の生命を超越してでも辿り着きたい人を見出すという感覚は、ぼくたちが生きていく本当の目的や意義を見定める上で大いなる示唆となるはずだ。

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・第40番「しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」

 

平兼盛による第40番の一首。

しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

意味としては「他人に知られないように心に秘めてきたけれど、顔色に出てしまっていたようだ。私の恋は、恋で物思いにふけっているのかと、人に聞かれるまでになってしまった」

男が男を好きになってしまっただなんて、絶対に知られてはいけない。それが初めて恋をした思春期のゲイの男の子の、誰に教えられることもない直感的な感覚だろう。ゲイからノンケへ向けた恋は、いつも他人に知られてはならない”忍ぶ恋”となってしまいがちになる。しかし本当に人を好きになってしまったとなれば、いくら努力しようとしても隠し通すことは難しい。叶うことのないノンケへの片思いがあまりにつらすぎて、ふとした瞬間に油断して気持ちがこぼれ出し、周囲の友達に伝わってしまうこともあるかもしれない。

しかし人間というものは、思いやりの深い者たちばかりではない。自分には関係のない他人の不幸を楽しみ、面白がり、他人の悩みを噂にすることで人生の暇つぶしをするような種類のくだらない人間はいくらでもいるだろう。そのような人間の正体を普段から敏感に察知しているからこそ、ゲイの男の子は絶対に他人には知られてはいけないと、余計に深い孤独へと落ちていくことになる。

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思春期の同性愛者(ゲイ)が孤独を感じる7つの理由

この歌から伝わることは、いくら必死に隠そうと努力しても周囲に漏れ出てしまうような本能的で情熱的な切ない恋が、いつの世でも人の心を惑わし苦しませているということではないだろうか。しかし今の時代でも大昔でも人間は同じ苦しみを享受していたのだと百人一首から知ることによって、今の時代でつらい片思いをしているぼくたちの魂が古代の魂と共鳴し、つらいのは自分だけじゃないんだと理解することにより、救済が過去より訪れ、ほんの少しだけ孤独が和らぐかもしれない。

 

 

・第38番「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」

 

右近による第38番の一首。

忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

意味としては「私があなたに忘れられることは何とも思わない。しかし愛を誓い合ったあなたの命が、天罰によって失われることが惜しまれてならないことよ」

自分を捨てた男に対する女性の恨みと情念がありありと描かれている。この男女は永遠の愛を誓い合ったのに、男が女を裏切ってしまったようだ。しかし裏切られた女は、私があなたに忘れられることは特段何とも思わないと強がる。それよりもむしろ気がかりなのはあなたが私を裏切ったことによってあなたに神様からの天罰が下りあなたが死んでしまうことだと、かつての恋人の命を惜しんでいる。この歌の面白いところは男が女を裏切ったことにより、男は天罰で死んでしまうのだということがもはや確定してしまっているかのように歌が展開している点にある。男はどうせ死ぬに決まっていると決めつける女の情念に、死んで当然だと思わせるほどひどい裏切りを男が働いたのだという事情が見え隠れしていて興味深い。

大好きだと何度も言葉を交わし合い、抱きしめ合い、愛し合っても、男は裏切り心が離れていく。それが男同士の出来事ならなおさらのことかもしれない。ぼくは大学時代にノンケの親友と恋人のような関係になり、しかし最終的には裏切られ、そのノンケの親友は女の肉体へと去ってしまった。大切な心を踏みにじられ、魂を引き裂かれたような感覚は、まさに天罰によって彼が息の根を止められても不思議ではないと感じられるほどに残酷なものだったことを覚えている。

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・第77番「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思ふ」

 

崇徳院による第77番の一首。

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思ふ

意味としては「川瀬の流れが早いので岩にぶつかって割れてしまった滝川がやがてまたひとつへ戻るように、今は離れ離れになっても、いつの日かまたあなたに巡り会えると信じている」

上の句では岩が激流の川をふたつに割り、しかしやがては下流でまた水の流れが合流するという迫力ある大自然の風景が描かれている。これだけながらただの自然描写に過ぎないが、下の句ではそのような水の流れを人間の運命と重ね合わせ、たとえ悲しい別れがあって離れ離れになってしまった人間たちでさえ、いつかはまた再会し一緒になれるのだと願っている。日本の大自然の風景と人間の深い情念が交差するまさに日本人らしい見事な歌ではないだろうか。そしてこの世で悲しい別れを乗り越え、傷つきながらも生きている魂たちは、この歌に心を揺さぶられないわけにはいかないだろう。

人間というものは生きているうちにさまざまな別れを経験する。仕方のない、どうしようもない、諦められるような種類の別れもあれば、なぜ別れなければならないのかわからない、お互いに思い合っていることは明らかであるにもかかわらず、なぜか別れなければならない運命へと陥ってしまったような引き裂かれる思いの残酷な別れもあるだろう。そんなとき、誰しもが願ったことがあるに違いない。今は離れ離れとなる運命になってしまったけれど、やがてはまたあなたに巡り会えると信じている。この一生の中でまた出会えるかもしれないし、もしかしたら一生を超えてでも、来世でまた魂同士が邂逅を果たすかもしれない。重要なのはお互いに強く思い合っているにも関わらず、運命的に離れ離れになってしまった場合には、やがてまた巡り会えると強く信じてしまう傾向が人間にはあるということだ。しかしその運命的な人間の心のうちに燃え盛る情念を、水の流れという大自然に絡み合わせたところにこの歌の真価があるのではないだろうか。

ノンケの彼がゲイのぼくと恋愛しても何ひとつメリットなんてないから、彼の「好き」という言葉を尊いと感じた

ぼくもやがてまた、あの人に巡り会えると信じている。強がりかもしれないし、欲張りかもしれないし、滑稽かもしれない。それでもいつかまた、姿かたちを変えてでも、国や時を隔ててでも、同じ魂の色を保っている限り、きっとまたあの人と巡り会うことができると信じている。

 

 

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