おそろしいものから逃げずに、むしろあなたが最もおそれるものへと旅立ちなさい

 

ねぇうまれつき 臆病な人なんていない

おそろしいものから逃げずに、むしろあなたが最もおそれるものへと旅立ちなさい

・お遍路の旅の狭路で車を擦った悲しい思い出

ぼくは四国お遍路車中泊の旅を遂行するため、関西から四国へと車を走らせていた。ぼくの車にはカーナビは存在しない。カーナビの役割なんてすべてグーグルマップで担えると考えているからだ。すべて無料でグーグルマップを使えるのに、高いお金を出してカーナビなんて買う必要ないのではないかというのが、ぼくの考えだ。しかしグーグルマップを過信しすぎるのも、実は問題があると今回特に強く感じた。

グーグルマップって、たまにすごく変な道を示したりするのだ!おそらく人が運転しやすい車道を選んでくれているというよりはむしろ、たとえ狭くて運転しにくい最悪の道でも、一番最短で行ける道を示してくれているのだろう。しかしそれが、運転者にとっては地獄の旅路になることもある。

なんかよくわからんがぼくが四国に行くために鳴門大橋まで向かっている途中、奈良かどこかの知らない小さな町で、普通に大きくて快適な車道を走っていたのに、急にグーグルマップが「右へ曲がってください」というので、グーグルマップを信用して曲がったところ、これまでの人生で見たこともないようなとんでもなく死ぬほど狭い田舎道に入ってしまい、マジでこんなん通れないやろ!というような曲がりくねった狭路を進んで行く途中で、十分に用心してゆっくり進んでいたが、曲がる際に位置感覚がつかめずに、車の後ろの方をガードレールに擦ってしまった!

 

 

・自分の感覚を信じられないと知った自身喪失

ガガガ!というあの地獄のような、やってしまった感満載の音は、今でも忘れることができないほどの悲しさである。ぼくは今まで10年くらい運転して来たが、車を擦ったことなんてないのだ!

しかしはっきり言って擦る、擦らないなんて直感的、感覚的な問題だ。ああ自分の車なら、この道ならこれくらいで擦らずに通り抜けられるだろう、ああ自分の車なら、これくらいの感覚があれば対向できるだろうというのは、すべて自分の空間把握能力に関する感覚・感性の問題であり、擦らないという合理的な証明があったり、論理的な説明があったりするわけでもないのだ。それはすべての運転手がそうだろう。

ぼくは自分が人生で初めて車をガードレールに擦ってしまったことにショックを受け、これまで信じてきた自分の位置感覚や直感的な感性が、絶対的に頼りになるわけではないことを思い知らされ、自分の感覚に自信を失くしてしまった。

 

・いつも平気で渡っていた狭路でさえおそれを抱く道に変わった

しかし、狭路に遭遇したのはこの一件だけではなく、四国お遍路では対向車など絶対に通れないであろう狭い道を通らなければならない機会が何度もあった。お遍路の88のお寺の中には山寺も非常に多く、狭い山道を車で上っていかなければならないからというのが理由である。ぼくはその擦過事故の一件以来、自分の感覚が信じられなくなったので、四国という見知らぬ土地の狭路を行くときも、やたらと慎重に運転するようになってしまった。また車を擦ってしまったらどうしようというおそれが、ぼくの心を苛んで離さなかったのだ。

また見知らぬ四国の道だけならまだよかったものの、故郷に帰って来てからも、いつも通っていた狭い道を通るのがやたらと怖くなってしまった。ぼくのおばあちゃんの家に行くためにはかなり狭い道を通らなければならない。いつも何度も通ったことのある道で、自分の位置感覚は大丈夫だという確信があった以前は、何のおそれもなくホイホイと狭路を走行したものだが、四国から帰ってきたぼくはいやに慎重に、そして臆病におばあちゃんの家までの道を通る人間になってしまった。自分の感覚はいつも正しいわけではないという自信の喪失と、車をまた狭路で傷つけてしまったらどうしようというおそれがここでも発動し、ぼくは以前の心に戻ることができない。

 

・生きるたびに傷つき、人は臆病で保守的になりゆく

年をとれば人間は臆病に、保守的になるというが、このようなことが原因ではないかと、ぼくは自分の経験をすべての人間の運命に反映させずにはいられない。生まれたての子供達は、みんな自由で自信に満ちており、おそれも知らず、傷つくことも厭わず、保守的な大人が止めるのも気にせずに、新しいことに挑戦したり、新しい世界に旅出ったりできるエネルギーに満ちあふれている。

しかしそのような子供達も、大半は人生を送るうちに、おそれを植え付けられ、またはおそれを自ら生み出し自分の心に注ぎ込むことによって、かつて周囲にいた大人たちのように、ひどく臆病にそして保守的になってしまう。自分はなんでもできるのだ、万能なのだ、正しいのだ、傷つくことをおそれないのだと透明に輝いていた魂たちは、濁り勢いを喪失し、やがて肉体だけではなく心さえ年老いて行く。

人生で一度深く傷ついてしまえば、それも仕方のないことだろうか。自信いっぱいに大空に翼を広げるように自由に生きて、その結果として過ちをおかし、自らを傷つけたり他人を傷つけたりすることで、傷つくこと、傷つけることがひどく怖くなり、恐ろしくなり、もう痛いことはいやだ、もう二度と人生で傷つきたくはないと、心を閉ざし塞ぎ込み、新しい世界へと羽ばたく翼を見失ってしまう。

また幼い頃より差別され、いじめられ、虐げられ、心が深く傷つくことでもうこれ以上自分を傷つけてはならないと頑なに自分自身を守護する魂を形成し、自らの直感や炎に向かって飛び立つ野生的な羅針盤すら失って、弱い自分を守ることだけが人生の目的なのだと誤るような種類の人間達もいるだろう。

 

・おそれを知った人間のどうしようもない運命

傷つくことは確かに痛く、悲しい。いじめられ、虐げられる心は確かに虚しい。しかしぼくたちは、二度と痛まないため、傷つかないために生まれてきたのだろうか。自分が何から自分を守っているのかわからないままで、自分を守り抜くためだけに、この世に生まれてきたのだろうか。おそれに支配され、心を覆い隠され、どのような純粋な虚空さえ飛び立てた本来の翼をもぎ取られ、地上へと叩きつけられることが、ぼくたちおそれを知った人間の、どうしようもない運命だろうか。

幼い頃を振り返れば、ぼくは痛みたかった。これをしたらどれくらい痛いのだろうと好奇心を持ち、わざとドアに足を挟んだりした。また絶対にダメだと親に言い聞かされた“火に触ること”が、どうしてダメなのか確かめたくなり、指を炎の中に自ら入れて火傷を負った。そしてなにがどれくらい痛いか、なにがどれほどおそろしいかを知り、もはやその行動を起こさなくなっていく。ぼくはもう二度と、わざとドアに足を挟まないだろう。二度と炎の中に身を投じないだろう。

しかしぼくはおそれを自らに植え付ける前の自分自身の本性を決して忘れてはいない。それは痛みを感じてみたい、おそろしいものと交わり合って、自分を大切にすることなく、自らが滅ぼされても構わないのだという、あらゆる世界へと旅立つための本能的な欲求である。これはぼくだけの本性だろうか。もしかしたら、あらゆる人間に底通する本性ではないだろうか。

 

 

・宇多田ヒカル「Face My Fears」

生まれつき 臆病な人なんていない
はじめてのように 歩きたい

というのは、宇多田ヒカル「Face My Fears」の歌詞である。この歌詞は宇多田ヒカルが自分の子供の赤ちゃんを観察しながら思い浮かべたものだろうか。

 

・傷つくために生まれてきたんじゃないというのは本当か?

“傷つくために生まれてきたんじゃない”

という安室ちゃんの「Get Myself Back」という歌の歌詞がある。ぼくは安室ちゃんは好きだがこの大衆に媚びたような、生ぬるい歌詞が大嫌いだ。ぼくたちは本当に、傷つくために生まれてきたわけではないのだろうか。

自分を傷つけるもの、自分がおそろしいと感じるものは、本当に自分の敵だろうか。自分から遠ざけるべきものなのだろうか。ぼくたちは本来、自分を傷つけるもの、自分がおそろしいと感じるものに興味を持ち、ちょっと触ってみたい、経験してみたいという直感的本性を隠し持っているのではないだろうか。それは自分を傷つけるもの、おそれを抱くものが、自分の魂にとってなくてはならない必要なものであることを、直感的に知っているからではないだろうか。

自分を傷つけないものは、確かに快適だ。おそれを抱くものに近づかないことは、確かに安泰だ。自分を安全に守ってくれているものに囲まれていれば、自分の肉体は傷つかず、自分の心も平穏なままで、生ぬるい温室の中のような人生を送ることができるだろう。しかしそれは同時に、自分の直感や本性をひた隠し、ただ安全に生きることを目的とした人生を送ることを意味する。ぼくたちの生命は、安全に傷つかずに生きるために神様からもらい受けたものなのだろうか。

ぼくは安室ちゃんの“傷つくために生まれてきたんじゃない”という歌詞を聞くたびに思う。ぼくたちは“傷つかないために生まれてきたんじゃない”のだと。

 

 

・中島みゆき「翼をあげて」

おそれは消えはしない 生きる限り消えない
迷え 選べ 己が 最もおそれるものを選べ

というのは、中島みゆき「翼をあげて」の歌詞である。

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Yamaha Music

 

・あなたが最もおそれるものがあなたを真理へと導く鍵

ぼくたちはなにをおそれるのだろう。なにがぼくたちを傷つけるのだろう。ぼくたちはおそれを憂う。ぼくたちは傷つくことを避ける。

けれど本当はおそろしいものに触れたい自分自身を知っている。傷つき、絶望し、滅ぼされたい自分自身に、いつしか気がつく。

守り抜き、守り抜き、その先にある報いとして、どのような世界が立ち現れるのだろう。おそれずに、憂えずに、虚空へと旅立った魂には、あらゆる世界が待ち構えていることも知らずに。

どんなに守り抜いても、この肉体は滅ぶというのに。どんなに安全な城を築いても、死からは逃げられないというのに。あなたは今日も自分を守っている。誰も近づかないでと泣きながら戸を閉ざす。あなたはいつも安全に惑わされる。あなたを守り抜くものなど、この世界にひとつとして、ない。

守り抜いても、必ず滅びる。旅立っても、やがて滅びる。それならばぼくたちは、どちらを選び取るべきなのだろう。守りの果ての氷のような死と、旅立ちの果ての炎のような死と、その先にある浄土の景色を思うことを、浮世の人間は忘れている。

本当は知っているのでしょう。おそれを抱くものたちが、ぼくたちの鍵。いつまでも忘れはしない。ぼくたちを傷つけるものこそが、ぼくたちの鏡。真理の国へと導かれる旅路を示すのは、ぼくたちが心からおそれるものたち。真理の虚空へと身を投げるのは、ぼくたちを果てしなく傷つけた羅針盤。

危険なものに近づいてはならぬと、衆生の決まりが耳に絡まる。安全の海の中を泳ごうと、浮世の欲望が囁きかける。奴らを無視する度胸はあるか。自らを信じる野生は残されているか。植え付けられたおそれをすり抜けて、真理の光へと飛び立つための翼が、まだおまえの背には残っているのか。

 

 

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