人を好きになったならば見返りに好きになってほしいと願うのは当然のことだというのは本当か?
目次
・同性愛者のぼくは、高校生の時に初めて人を好きになって悲しかった
ぼくは高校生の時に初めて人を好きになって、とても悲しかった。それは好きになった人がぼくと同じ同級生の男の子だったからだ。ぼくも男で好きな人も男ならば、好きな人がぼくのことを好きになってくれて、両思いになれる可能性は限りなくゼロに近かったからだ。男というものは普通、女の肉体を好きになる性質を持った生き物だ。好きな人がぼくと同じように、男を好きになる同性愛者という珍しい存在である確率は極めて低かったし、全くそのような気配も感じられなかった。ぼくの初恋は当然のように叶わず、これからの人生でも日常生活で人を好きになることがあっても、決して結ばれない運命にあるのだと、同性愛者として生きていく定めを背負ったことに絶望した。
・大学時代、ぼくは同級生の男の子が好きで好きでどうしようもなかった
ぼくの恋は絶対に叶わないと高校時代の初恋で学んだはずなのに、ぼくはまた大学で同級生の男の子を好きになってしまった。人は恋について経験からいくら学んだとしても、それを活かしきれない生き物なのかもしれない。言葉や論理では絶対に叶うはずがないとわかっているのに、直感や本能や若く暗い生殖の衝動が、ぼくを人を好きになるような方角へとどうしようもなく突き進ませた。同級生の男の子が好きで好きでどうしようもない自分自身を眺めながら、どうせ好きになんてなってもらえないのに、どうして好きになってしまうのだろと、誰にも言うことができない同性愛の悩みが頭の中を占領し、精神は深い孤独へと落ちていった。
・人を好きになったならば、見返りに好きになってほしいと願うのは当然のことだろうか
しかしよく考えてみればそれは不思議なことだ。なぜなら何も人を好きになったからといって、そのお返しにその人から好きになってもらわなければならないという決まりがあるわけでもないからだ。別に人を好きになって、あぁ自分はちゃんと人を好きになれる人間だったのだなぁと心を満たされて、幸せを感じることだってできるはずだ。それなのに全くそのような発想に至らずに、自分が勝手にその人を好きになっているだけのくせに、その人からお返しに好かれたいと願ってしまうなんて、相手からしてみればいい迷惑だし知らんがなという心境だろう。一体なぜぼくたちは、人を好きになったならば必ず相手からも好かれたいと願ってしまうし、人を愛したのならばその見返りとして愛されることを切望してしまうのだろうか。
ぼくだけに限らず、恋愛というものはそういうものだと相場が決まっている。世の中に溢れるドラマや映画や本などのさまざまな恋愛物語を見ていても、人を好きになった、あぁそれだけで満足だという作品は見たことがない。人を好きになったなら、ぜひその人からも好きになってもらい、両思いとなって結ばれることを願い始めることは、ごく普通の当たり前の展開だ。ぼくたちはそのような恋愛作品ばかりが飽和している世の中で生きてきて、そのような作品にばかり触れているから自然と感化され、自分が実際に人を好きになった際も、人を好きになった、それならばまずはその人から好かれなければという思考回路に即座に陥ってしまうのだろうか。それとも人間というものが、そもそも人を好きになったならばその人から好かれなければならないと思い込むようにできている生き物だから、世の中にはそのような種類の恋愛物語しか生まれることがないのだろうか。
人を好きになった、だからその人から好かれたいと願うという展開を、おかしなことだと否定する人はこの世にいないだろう。逆に人を好きになった、あぁよかったよかったと物語がそこで終わってしまったら、おいおいちょっと待てよとツッコミを入れたくなってしまうかもしれない。人間の世界において、人を好きになるということは、必ず、その人から好かれたいと願うことがセットになっているようだ。人を好きになる、相手から好かれたいと願う、その願いが叶う、両思いになる、そして結ばれるという物語の展開は、誰もがすんなり受け入れることのできるごく自然な流れだと見なされるだろう。結局人を好きになるという恋愛の現象は、究極的には結ばれるという結論のために発生しているようだ。
結局人を好きになることや恋愛は、生殖へとたどり着くための最初の起爆剤という動物的な機能を果たすだけなのだろか。もしもそうであるならば、人を好きになることと、その人から好かれたいという願いがセットになる理由も理解できる。好きになったからといって、お返しに相手から好きになってもらえなければ、安定した生殖行為をすることが不可能だからだ。人を好きになり、お返しに好きになってもらい、両思いとなり、結ばれ、たくさん生殖し、子供を生み出し、子孫を繁栄させるというのは人間が動物である限り潜在的に抱えている大きな生きる目的のひとつだ。人を好きになるという現象は、結局のところ子孫繁栄という大いなる種の目的を達成するために、ぼくたちに仕組まれたぼくたちを生殖へと突き進ませるための操りの道具なのだろうか。
・もしも人を好きになることだけで、幸せを感じることができたなら
「もしも…」とぼくは考えてしまう。「もしも人を好きになるだけで、それだけで幸せを感じられるのならばどんなにか楽だっただろうか」と。
既述したようにぼくたちは、人を好きになったならば即座に、その人から好かれたいと自然と強く願ってしまう。それは両思いとなり、結びつき、生殖しなればならないという動物的な本能を植え付けられている限りは仕方のない願いなのだろう。しかしこの願いのために、どれだけの人間が深い苦しみを味わう宿命を背負わされたことだろうか。もしもぼくたちが人を好きになっただけで満足できたなら、人を愛しただけで心が救われたのならば、何を返してもらわなくても泣かずにいられたならば、ぼくたちは暗闇の中で迷宮を進んでいくような深い絶望感を抱かずに済んだかもしれない。
好かれなくてもいいんだよ、愛されなくてもいいんだよと、なぜ誰も迷える魂に語りかけてやることができなかったのだろう。どうせ叶わないくせに、好かれなければならない、愛されなければならないと心から信じ込むことによって、ぼくの魂は無限に引き裂かれる思いがした。人を好きになっただけであなたは生まれてきた意味があったんだよと、人を愛しただけであなたは価値のある気持ちを身につけたんだよと、誰も言ってくれなかったから、魂を喪失したぼくに、ぼくから伝えたい。自分を救ってやれるのは、他でもない、自分しかいないから、魂を喪失したぼくに、ぼくから伝えたい。
・ぼくが愛されたいと願ってしまったから、ぼくたちはもう二度と会えない
本当は心の底では気づいていたはずだった。好きになれただけで嬉しかったこと、巡り会えただけで泣きたかったこと、笑い合えただけで幸せだったこと。それなのに「好き」だと言われて舞い上がってしまった、キスできて思い上がってしまった、お互いの果実を触って発情してしまった。本当に大切なことは最初からわかっていたはずなのに、あなたと過ごす旅の途中で、嵐の中に置き去りにしてしまった。
あなたの若い男の肉体は、常に女の肉体を求めていた。それを見ながらぼくは隣で「あなたはとても素敵な人だからすぐに恋人ができるよ」と微笑んだ。切なかったけれどどうせ叶わない思いなのだから、それならばいっそ、あなたがあなたの求める肉体を手に入れて、あなたに幸せと快楽が訪れることを願った。ぼくがあなたに心を返されることを望まないとき、ぼくがあなたの幸せだけを願ったとき、あなたはとても嬉しそうだった。
それなのにあなたから「好き」と言われてから、ぼくはあなたから心を返されたいともがいてしまった。やがてあなたに彼女ができたことを、あなたに幸せが訪れたことを、ぼくは裏切りだと言って彼を罵った。もしも、あなたを好きになることだけでぼくが幸せだったなら、あなたに心を返されなくてもぼくが傷つかなかったならば、ぼくたちは今でも友達同士で、笑い合いながら会えていたのかもしれないね。