ゲイからノンケへ告白!男同士で告白する際の3つの危険性と、その危険を乗り越える意味
目次
・この世には様々な「好き」の形が存在する
この世には様々な男が存在する。女を好きなる男、男を好きになる男、どちらも好きになる男、どちらも好きにならない男など多種多様だ。どのような恋心であってもこの世に存在している限り間違いではないものの、やはり多いとか少ないという分布は存在する。
もちろん誰もが知っている通り、この世のほとんどの男は女を好きになる。女に恋をし、女の肉体を求めて、快楽と共に女と生殖し、結果的に人間の子孫が繁栄するという生物的システムになっている。しかしいつの世でもどこの国であっても、ある一定の割合で男を好きになる男は存在する。社会は心の性までは気にせずただ肉体の性だけで大雑把に人を分類する傾向があるので、女を好きになる異性愛者だろうが男を好きになる同性愛者だろうが、男の肉体を持っていれば友達として男とつるむことが当然多くなる。
そのような日常の交流の中で、同性愛者の男の子(ゲイ)が異性愛者の男の子(ノンケ)を好きになってしまうのはとても自然なことだ。しかしこの恋は、悲劇的な片思いに終わってしまうことが非常に多い。男の子が日常生活の中で自然と友達の男の子を好きになっても、その片思いの相手は女の子を好きになる可能性が極めて高いからだ。同性愛者の男の子は異性愛者の男の子の求める女の肉体を持ち合わせていない。恋というものが結局は肉体的交わりへと帰着する次元のものならば、同性愛者の男の子の片思いが叶わずに終わってしまうことは当然の成り行きだろう。
・男から男にする告白は危険に満ちている
しかしそうは言っても自らの根源から沸き起こってくる直感的で野生的で燃え盛るような好きという気持ちを抑え込むことは難しい。恋というものは雷とか嵐とか地震とか、自分の意思とは全く関係なく突然に降りかかる天災みたいなものなので、それを自分でコントロールできなくても当然だ。天災のように突如として降りかかってきた叶わない片思いに悩み苦しみもがきながら、その天災から自分自身を解放する手段のひとつとして、同性愛者の男の子は「告白」を選ぶだろう。
しかし男から男に告白するということは、男から女へ、女から男への告白とはまた異なる危険性が存在している。我慢できなくなって告白するのは自らの判断だが、事前にその危険性を知っておくことも必要なことではないだろうか。
危険1:好きな気持ちを受け取ってすらもらえない
男から男に告白するまず最初の危険として、「好きな気持ちを受け取ってすらもらえない」という可能性が挙げられる。普通男から女へ、または女から男へ告白すれば、付き合う気がなかったとしても「そうなんだ、ありがとう、その気持ちは嬉しいよ、でも…」などと続けて断りの言葉を述べるだろう。異性愛者の告白ならば、そこに好きな気持ちを当然のものとして受け入れるというプロセスが潜在的に存在する。男が女を好きになった、女が男を好きになった、その恋する気持ちは生き物として当然であるという肯定的な視線が注ぎ込まれ、その肯定の上で告白に対してYESかNOが決まるだろう。
しかし男から男への告白の場合、そもそもYESかNOを告げられる前の次元で「男が男を好きになる」という(相手にとっては)あまりに珍しい前提を受け入れることができずに、好きという気持ちや言葉すら受け取ってもらえない可能性だって大いにある。無理だとわかっていても砂の粒よりも小さな希望を託して告白しているのに、それにNOと断られるだけではなく、好きという言葉を「受け取ってすらもらえない」というのは悲しいものだ。勇気を出して告白したのならば、答えがNOであってもせめて好きという気持ちを受け取ってほしいと願うのが人間として当然の願いだが、残念なことに相手にとっては何が起こったかわからずにひどく戸惑い、それができない可能性は十分にある。
危険2:今まで育てて来た大切な友情の喪失
男が男に告白する場合、その2人は元から仲のよい友達か、あるいは親友である場合も多いだろう。しかし告白してしまえばせっかく仲のよい友達だった関係が崩壊してしまい、もう二度と前のように友情を育むことができなくなる危険性も高い。親友として多くの喜びや楽しみを共有できる仲間だったのに、そのかけがえのない友情を突如として失くしてしまうのはあまりに悲しい。ゲイがノンケに告白する場合、絶望的な失恋の悲しみに加えて、大きな友情の喪失感に苛まれることにもなるだろう。
ノンケというのは男を好きな男を敬遠する傾向がある。自分は女の肉体を抱きたくて仕方ないのに、男に好意など持たれている場合ではないというのは本音だろうか。理由はどうであれ、ノンケが男を好きな男というものを受け入れられない可能性も高く、そうなった場合には今まで大切に培ってきた友情を諦めなければならない結果になってしまう。ただでさえ恋が叶う可能性は露ほどもないのに、その上それまでの友情さえ全て失ってしまうなんて、ゲイからノンケへの告白には失うものが多すぎるのかもしれない。
危険3:自分がゲイだと言いふらされる可能性
またゲイがノンケに告白することで、これまで隠してきた自分が同性愛者であるという事実が他の人にまで暴露されてしまう可能性もあるだろう。もちろん告白をするのでそのノンケに自分がゲイであることが明らかになってしまうのは当然の成り行きだが、そのノンケがどれだけ口が固いのか、噂話は好きなのか、ちょっとした悩みでさえ他の友達に気軽に相談してしまうような人物像なのかどうかは、はっきり言って計り兼ねる。
もしかしたら告白されたノンケは親友に告白されたことがとても大きな悩みとなり、誰かに聞いてもらわないとやってられなくなり、相手がゲイだったという事実も全部含めて告白の経緯を他の友達に暴露されるかもしれない。しかし告白したゲイの男の子はそんなこと全く望んでいないし、予想外だし、予定外だ。ゲイの男の子はただ好きなノンケの男の子に気持ちを伝えたかっただけで、他の人にまで自分がゲイであることを噂されるなんて思いもよらないことだろう。
突然自分の大きな誰にも言われたくない秘密を信頼していたからこそ告白した人に暴露されたら、ゲイの男の子はノンケの男の子に裏切られたと感じるだろう。同性愛者であるということを他の人には秘密にしておいてほしいことなんて、たとえお願いしなくても普通の感性で考えれば絶対にわかるはずだ。ノンケの男の子はそれを秘密にしてほしいことだと知りながらも、抱えきれずに他人に暴露したに違いない。しかし告白されたノンケの男の子だって、ゲイの男の子を今まで大切に育ててきた友情をいきなりぶち壊した裏切り者だと感じている可能性もある。本当はずっと親友でいたかったのに、急に告白されて一緒にはいられなくなり、つらくて抱えきれず他の人に相談せざるを得ないという場合もなきにしもあらずだ。
このように男から男へ告白するということは、非常に複雑な要素が多重構造で絡まり合っており、一筋縄ではいかない。
・ゲイからノンケにする告白は、損得勘定を超越する
このように男が男に告白すること、ゲイからノンケに告白することは、様々な危険に満ちている。冷静に考えればこんな危険だらけの恐ろしい告白をしようと思うなんてどうかしてるし、やめておいた方が賢明だと誰もが思うが、恋に落ちるとは冷静になれないことを言うのであり、危険の中に飛び込めるほどの無鉄砲さと度胸を噛み締めることも、恋をしている期間限定の人生における稀有な経験のひとつである。
これまで見てきたようにゲイからノンケに告白するなんて危険が多すぎる。はっきり言って損しかしないだろう。そして失うものがあまりにも多すぎる。しかしだからと言ってノンケに告白するゲイの男の子を愚かだとは決して思わない。それはとても神聖な行為だ。誰もが自分ではない何か大きな力に突き動かされると感じるとき、そこには損得勘定を超越した燃え盛る絶対的な炎が出現し、自分や世界はどうなって構わないからとにかく行動すべきという尊い使命感を感じるだろう。それを我を忘れていると見下す人もいるかもしれないが、我を忘れるほどの経験を積まなければ人間は生きている甲斐がない。世の中なんてふり向きもせず、ただひたすらに、真剣に、大いに我を忘れて、燃え盛るように人生を生き抜くべきである。
損得勘定で考えたなら、ゲイからノンケへの告白は損だ。だからと言って恐れることはない。ぼくたちはこの世に得をするために生まれてきたわけではない。何も持たずに生まれて来て何も持たずに死んでいくのだから0から0の人生であり、その間でどんなに得をしても意味がない。損とか得なんて考えずに、損も得も超越した次元であなたが行動を起こすとき、たとえ何もかもを失ったとしても、あなたの掌には必ず何かが握りしめられているだろう。それが何かは、超越した者にしかわからない。喪失を覚悟して、行動した者にしか見えない。けれどこの世に生まれてきたからには、ぼくたちはその正体を見極めるべきだ。
たとえ何もかもを失ったとしても、あなたの掌には必ず何かが握りしめられているだろう。
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