日本人にとって旅とは、孤独で悲しい魂の巡礼ではないだろうか。
ゲイのぼくは深い喪失感と無力感を抱きながら、次第に世界一周の旅へと導かれていった
目次
・旅とは楽しく明るく朗らかなものであるというのは本当か?
ぼくが「仕事を辞めて世界一周の旅をしている」というようなことを人に話すと、好きなことをしていて楽しそうとか、自由に生きていて羨ましいとか、海外に一人で行くなんて勇気があって凄いというような、割と肯定的で前向きな反応がよく返ってくる。彼らが共通して信じているのは、ぼくが旺盛な好奇心と冒険心を抱き、持ち前の行動力を発揮して積極的に海外へと旅立っていったということだ。もちろん好奇心や研究心や冒険心があることは否定しないが、そのような意見は物事の本質を突いていないような気がしていつも違和感を覚えてしまう。
一般的に旅という行為は、明るくて朗らかで楽しいイメージがつきまとうことが多い。行きたいところへ行って、食べたいものを食べ、素敵なホテルに泊まるというのが世間一般に思い浮かべる典型的な旅の風景ならば、そこに明るく楽しい前向きなイメージしか生まれないのは当然のことかもしれない。
しかしぼくの中で旅とはそのような前向きなイメージでは決してなく、どちらかというと暗く厳しい”魂の修行”という印象が強い。旅に出たいという楽しく単純な欲望をただ満たすために積極的に進んで旅に出かけるというわけではなく、別に旅に出る必要がないのなら出ないに越したことはないのだけれど、旅に出ざるを得ない宿命を背負ってしまったからこそ、自力では変えることができない旅の運命に翻弄され支配されているからこそ、どうしようもなく仕方なく旅立ってしまうものが”旅”だという観念がぼくの中には存在する。旅とは暗くて重く、そして孤独な魂の彷徨だ。
・日本の伝統芸能「能」のワキが抱える旅に出ざるを得ない運命
ぼくのような独特な旅の観念を同じように持っている人は少なく、世の中で共有することも難しいだろうと思われたが、生きているとぼくと全く同じような旅の観念に偶然にも巡り会った。それは日本の伝統芸能「能」の中においてである。
「能」の物語は、ワキとシテという2人の登場人物で成り立っている。ワキとは放浪の旅人、そしてシテとは異界の者だ。ワキはただの観光客としての気楽な旅人ではなく、何もかもを喪失してこの世では生きられなくなった者、もしくは運命的にこの人生では幸せになれないと決められた種類の人間が、世捨て人となって流浪の旅に出た存在であるという。そのようなワキが旅の途上でふとしたきっかけで異界へと迷い込み、異界の者であるシテと巡り会い、シテの抱え込んでいる問題を解決してやることを通して、また元の世界へと帰り着けるのだという。何とも不思議なこのような構成が、能の物語の典型パターンだという。
このワキが抱えている”旅をしたいわけではないのだけれど旅に出るしかない運命”がぼくの中の旅の観念と合致し、何とも言えない感動を覚えた。なぜならぼくの旅の観念は誰にも理解も共有もされない独特のものだと孤独感を感じていたのに、気づけば古代より脈々と受け継がれてきた日本の伝統芸能の中に共鳴し呼応する類似の旅の観念を発見できたからだ。伝統芸能にこの観念が含まれているということは、それはすなわち古代より生きてきた日本民族の感性が多かれ少なかれ継続的にこの旅の観念に同意し、賛同し、共感していたことを意味する。ぼくの中の旅の観念は、日本民族の伝統的で潜在的な感性の総意だったのだ。
・積極的な冒険心ではなく運命的な深い喪失感が、ぼくらに旅の炎を植え付ける
ぼくは本来、安定を求める臆病な性格であるように感じる。積極的な冒険心や並外れた行動力がある方でもない。しかし実際はその真逆の人生を辿り、突拍子もなく行ったこともない異国へ一人旅に出かけたり、何があるのかわからない危険そうな国に飛び込んだり、医師という極めて安定的な職業を中断して世界一周の旅へ出離したりしてきた。それは臆病な性格を超越して自分自身を導く大いなる力、すなわち旅に出なければならないという運命的な力に突き動かされたとしか自分でも説明がつかない。人間の魂に避け難い旅する運命、宿命的な旅する炎を植え付けるものは一体何なのだろうか。
ぼくはそれは、深い喪失感だと感じる。人生の中でどうしようもない絶望感やとてつもない孤独感、巨大な喪失感に飲み込まれた時に人は、誰に教えられることもなく魂を異国へと旅立たせ、自分自身の心が壊れてしまわないよう必死に自分自身を護るのではないだろうか。それは日本の伝統芸能「能」のワキの性質とも重なる。ワキとは浮世の中で何もかもを喪失してこの世では生きられなくなったが故にどうしようもなく旅立った者のことを指すからだ。
深い喪失感というものは、他人には見えない。外からは笑顔で気楽に生きているように見える人でも、本当のところはとてつもない喪失感を内側に秘めており、心の裏側では常に冷たい涙を流し続けているかもしれない。喪失を経験した人と、喪失を経験したことのない人とでは、同じ風景を見ていても全く異なった色彩が立ち現れるだろう。濃厚な喪失に打ちひしがれ、喪失に魂を打ち砕かれ、自分がこの世に生きているのかどうかさえわからなくなったとしても、人の肉体はなお呼吸を繰り返し、やがて来る救済の時を待ち続ける。深い喪失感を伴った人は誰でも、魂の旅人となり巡礼の道を歩み始める。
・旅という運命に支配された孤独な魂の巡礼
明るく楽しく積極的で元気な旅というものに、ぼくの心は共鳴しないし響かない。それはぼくの中の「旅」という言葉の範疇から逸脱してしまっているからだ。旅という運命を背負ってしまった、孤独で悲しみの影がある魂の放浪こそ、ぼくの中で「旅」と呼ぶにふさわしい。そしてそれは日本人の心の根底に古代から流れ引き継がれている潜在的な「旅」の気配と完全に一致する。
思えばぼくは歌というものも明るく楽しく盛り上がる種類の音楽というものが嫌いだった。嫌いというか、それを歌とすら見なすことができないのだ。ぼくの中で歌とは、本当は伝えようとしていないのだけれど伝えずにいられないような、心の葛藤や苦しみや深い悲しみをどうしようもなく音楽として表現してしまった滲出性の芸術作品だ。それは悲痛でなければならず、切なる願いでなければならなず、打ちひしがれた祈りでなければならず、孤独で憂いに満ちていなければならない。
それはぼくが小さい頃から母親の影響で中島みゆきを聴き続けてきたことが関係しているのかもしれないが、このような個人的な音楽の趣味嗜好が精神全体にまで波紋を広げ、ぼくの中の「旅」という言葉の定義にまで影響を及ぼしているのだとすればそれは興味深いことだ。そしてぼくの中の主観的で特殊な旅の感性と、日本人が古代より受け継いできた伝統芸能「能」の中の感性が似通っていることも、これまた興味深い事実であるように思われる。