もうすぐ中島みゆきの「進化樹」という歌が発表になるらしい。
中島みゆきの樹木をテーマにした歌1「樹高千丈 落葉帰根」
・中島みゆきの新曲は「進化樹」
中島みゆきの新曲「進化樹」と「離郷の歌」が、テレビ朝日系ドラマ「やすらぎの刻〜道」の主題歌として4月にはテレビで発表されるようである。「進化樹」と「離郷の歌」という名前以外は、詳細な情報はなにひとつないままだが、中島みゆきの歌には木に関するものもたまにあるよなぁと、「進化樹」という言葉を聞いてふと思い当たったので、ここで紹介していこうと思う。
中島みゆきの樹木をテーマにした歌には、一体どのようなものがあるだろうか。
・「樹高千丈 落葉帰根」
まずは、「樹高千丈 落葉帰根」という歌である。「樹高千丈 落葉帰根」は中島みゆきの29枚目のオリジナルアルバム「心守歌」の3曲目に収録されているアルバム曲だ。この曲はその後中島みゆきのコンサート「一会」でも披露され、そのライヴCDでもライヴ映像作品でも鑑賞できるようになっている。
「樹高千丈 落葉帰根」と言ってもあまり聞き慣れない言葉だが、中国の故事にこのような言葉を表すものがあるようだ。
・心細い離郷の心情
”見知らぬ土地へ流れていく 心細さを例えるなら
幹から遠くなるほどに 次第に細くなっていく枝葉”
という言葉で始まるこの歌は、故郷を離れる自分自身の心細い心情を、木の枝の先端にある木の葉の心情に投影させて見事に表現している。樹木が成長していくにつれ、そして枝が伸びていくにつれ、木の葉同士の距離は遠くなり、孤独な感情を増していく。それは人間が成長するにつれて、親しかった関係の人々と離れざるを得ない運命にあることを示唆している。それを心細く思いながらも、自分自身そのようにして故郷や親しい者たちと離れてしまうことを、なぜか望んでしまう自分自身にも気がつく。
・離郷という定め
”樹高は千丈 遠ざかることだけ憧れた”
自分自身の意志によって離郷するのか、どうしようもない運命によって離郷するのか、はたまたそのどちらもが重なり合って、故郷を離れていく自分自身を発見するのは、それは誰にもわからない。そして木の葉のように故郷(=自分の中心=幹=根源)から離れてしまったそれぞれの木の葉たちは、風の吹くままにお互いにぶつかったりすぐ離れ合ったりする。親しかった者たちと再開する縁、また別れ合う縁。それは自分自身の力ではどうすることもできない、いわば風による他力の力である。
・人を愛したいからこそ立ち去る者たち
”それぞれ離れていく枝は 束の間触れてはまた離れ
風の仕業と知りつつも 諦めきれずにふりかえる
わたしはひとりが嫌いです それより戦さが嫌いです
それゆえ違う土地へ行き 懐かしがろうと思います”
親しい人がいることや彼らとも思い出は、人生の宝にもなる。しかし親しすぎるがゆえに争いぶつかり合うことも増えてくる。まるで人間は樹木の枝のように、近く存在するだけでどうしようもなくぶつかり合って傷つけ合ったりする。それならばいっそ、遠く旅立ってしまえば、傷つけ合わずに済むこともある。親しい人々を、遠くにいるからこそずっと愛せるのではないかという自分に気がつく。
しかしそのような繊細で不器用な木の葉の胸の内を故郷の者たちは知らず、薄情な奴だと罵られ、もはや自分は遠郷の地で、親しい人々にも忘れ去られ、誰にも知らずに孤独に死んでいくだけだろうか。故郷の親しい人々を愛したいからこそ、自分から望んで立ち去った故郷。できるならば誰でも愛したい人を、憎まずに終わりたい。けれどとても近くにいては、それを叶えることはできない。人を愛したいからこそその人から遠ざかるという離郷の行動は、矛盾に満ちているようでひとつの真実である。
愛しているからこそ離れていくという心情の歌は、中島みゆきの歌の中に数多い。これは彼女の根底にある人格形成の重要な一要素なのだろう。愛されなくてもいい、愛したいからこそ立ち去っていく姿は、深い慈愛に満ちているようにも見える。
”人間好きになりたいために 旅を続けていくのでしょう”
そんな「一期一会」の歌詞が脳裏をよぎっていく。
・木の葉の救済は輪廻転生のゆりかご
しかし中島みゆきは慈愛に満ちた木の葉のように孤独な魂たちに、大いなる救済を与える。思えばこの歌の中では、心細くどうしようもなく孤独になってしまう木の葉のような離郷の人々の心を見事に樹木的にとらえ、その悲しみや心苦しさを表現しきった後に、それをサビで救済の方角へと導いていく。「樹高千丈 落葉帰根」の一曲だけで、もはや簡単なひとつの夜会を見ているような、大きなテーマの作品だ。彼女の木の葉のような魂たちへと救済は次のような言葉によって投げかけられる。
”落ち葉ははるか 人知れず消えていくかしら
いいえどこでもない 枝よりもっとはるかまで
木の根は揺りかごを さしのべてきっと抱きとめる”
はるか彼方に離郷した木の葉は、朽ち果ててその命を終えたその先に、根源の木の根に抱きとめられ救われるという歌詞は、なんとも本質的な真実である。どんなに遠方へと旅立ったと自分自身では思っていても、故郷というものはそれよりもはるかに広いものなのかもしれない。そして根から生まれ、根へと帰っていくという概念に、輪廻転生の思想を感じるとともに、琉球諸島のお墓が子宮の形をしているという、母胎回帰の思想をも連想させられた。余談だが母胎回帰の思想は、宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」でも一作品を使って壮大に描かれているという。
そして受け止めるのがゆりかごであるという点も面白い。やがて朽ち果てて落ちた老人の木の葉であっても受け止められるのは赤ちゃんの使う「ゆりかご」なのだ。そこにはやはり、輪廻転生の願いが込められているような気がする。人を愛したくて離郷して、異国の地で命尽きた木の葉は、木の根という根源において、また赤子から人生を始めるのかもしれない。