日本の古代の神々だって、引きこもりをしていたゾ!!!!!
アマテラスや山の神も「引きこもり」だった!日本人にとって引きこもりとは魂の浄化作業だ
目次
・引きこもりが悪いことだというのは本当か?
現代の日本社会において「引きこもり」と呼ばれる人々が問題になっているようだ。一般的なイメージでは「引きこもり」とは労働に従事せず家から外に出ないという印象を持つが、厳密に言えば「引きこもり」とは家族以外の接触がなく社会参加をしていない状態を指すという。つまり家族以外との接触がないまま、ひとりで外出しているというような「引きこもり」の人もいるようだ。「引きこもり」は不登校や退職がきっかけで起こりやすいという。
「引きこもり」の状態が長期化すると周囲からの批判や自責の念によって、引きこもっている本人に非常に大きなストレスがかかる。そうしたストレスや孤立状況に対する反応として、さまざまな精神症状が生じることが「引きこもり」の最も大きな問題だという。
世間一般のイメージからすれば「引きこもり」は悪いこと、労働もしないダメなこと、社会に適応できない失敗した人間ととらえられがちであるが、果たして本当に「引きこもり」はそんなにも悪いことなのだろうか。そりゃあ本人は引きこもりたくないのに引きこもらざるを得ないとか、引きこもっていることにより精神症状が悪化して本人が苦しいのであればなんとか「引きこもり」を解決するために努力すべきだが、それはなく本人が望んでそうしている場合やそれで心満たされている場合はどうなのだろう。
ぼくが「引きこもり」をそんなに悪いことなのかと疑問に思ってしまう理由のひとつは、日本の神話や日本昔ばなしにおいても、日本の神様たちだってたくさん「引きこもり」をしているじゃないかと感じるからだ。
・天岩戸伝説における天照大神の引きこもりの一例
最も有名な日本の神様の「引きこもり」は天岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)における天照大神(あまてらすおおみかみ)の岩への引きこもりである。太陽の化身であり、天皇のご先祖でもある天照大神は弟のスサノオが暴れん坊であることに嘆き悲しんで、天岩戸に引きこもって出てこなくなってしまう。天照大神は太陽そのものだから世界は暗闇に閉ざされ、様々な悪いことが起こったので他の神々は困り果て、どうしたらいいものかと天安河原(あまのやすかわら)で相談する。
話し合いの結果、アメノウズメノという女神が天岩戸の前でほぼ裸で舞い踊り、神々は大いに盛り上がったという。天照大神が「自分が天岩戸に隠れて神々が困っているはずなのにどうしてあんなにも盛り上がっているのだろう」と疑問に思い少し岩戸を開けてしまったところ、手力男神(たぢからおのかみ)によって引きづり出され、世界には無事太陽の光が戻ったという。
外の世界の暴力や理不尽に嘆き悲しみ天岩戸に隠れた天照大神は、まさに現代の日本人の「引きこもり」の姿と合致するように感じられる。悲しいことがあれば心を閉ざし、自分自身だけの世界へ入ってしまう。それは今の日本人でも古代の神々でも同じ、この国に生きる者の性質として認められるべきではないだろうか。
・醜い女神、日本の山の神における引きこもりの一例
ぼくが知っているもうひとりの「引きこもり」の神様は、日本の山の神だ。日本の山の神は女性で、とんでもなく醜いお顔だったという。ある日山の神が里に出てきて歩いていると、川の水面に映った自分の醜い顔を偶然見てしまう。自分はこんなに醜い顔だったのかと驚き悲しみ、山の神は山へ引きこもってしまった。山の神は田の神にもなるので、山の神が山に引きこもってしまったばっかりに作物が育たなくなってしまい村人たちは困り果てていた。
村人たちは長老に相談しアドバイスを受けた。長老は山の神に。醜い顔の魚であるオコゼを見せるよう村人たちに命じた。自分の顔より醜いオコゼの顔を見れば、山の神も自分の醜さが大したものじゃないと開き直り、機嫌もよくなり引きこもるのをやめるだろうと推測されたからだ。長老の予感は見事に的中し、山の神は機嫌を取り戻し、きちんと作物も取れるようになって村には平和が戻ったという。
この山の神の場合は、自分の顔が醜くてみっともないことを知ってしまったのでもう外に出たくないと山に引きこもってしまったという物語だった。このケースもあまりにショックで悲しいことや恥ずかしいことがあると、心を閉ざして自分を全てから遮断して引きこもってしまうという日本人の古来からの性格が示唆されているようで興味深い。
・日本人にとっての浄化方法は「祓う」と「こもる」
日本人にとっての浄化方法は2つがあるという。それはすなわち、「祓う(はらう)」ことと「こもる」ことだという。こもるというのは、日本人にとって精神を浄化するための行動なのだ。しかしなぜ精神を浄化する必要があるのだろう。それは人の世や社会があまりに穢れているからではないだろうか。
人々は社会でうまく世渡りをやっていけるような人間を素晴らしい人物だと賞賛し、社会でうまくやっていけない人間を出来損ないだとか社会不適合者だと言って見下す傾向がある。しかし本当にそうだろうか。複雑なこの社会においてうまく世渡りするために、ぼくたちは自分をたくさん誤魔化したり、他人に様々な嘘をついたり、言いたいことも言わずに必死に我慢したりして、偽りの世界の中を泳いでいかなければならない。つまり上手に世渡りするために、人々は正直に生きたり、誠実に生きたり、心のままに美しく生きるということを妨げられてしまうということだ。そんな偽りに満ちた人生が、果たして賞賛されるべきだと言えるだろうか。
本当は社会でうまくやっていけない種類の人間の方がまともなのではないだろうか。自分の思いのままに美しく生きたいと願うあまり、自分に決して嘘をついて生きたくはないと不器用に思うあまり、他人のことなどふり向きもせずにただ自分自身に誠実に真剣に生きようとするあまり、自らを抑えることを強要されるぬるま湯の協調性に満ちた世界では生きにくかったのではないだろか。実はこの世で生きづらい人々の方が、清らかで美しい魂の持ち主ではないだろうか。
そのような清らかな魂が、誤魔化しと偽りと虚言に満ちた人間の社会を生き抜いた結果として、自分の魂が穢されてしまったと感じるのならば、すぐさま浄化する他はない。だからこそ彼らは「引きこもり」へと身を転じ、自らの運命や魂の姿と必死に向き合っているのではないだろうか。魂を浄化しようとする伝統的な彼らの姿を、治療が必要な病的状態だと本当に安直に決めつけてもいいのだろうか。本当に癒しが必要なのは、自分自身で浄化の道へと入ることのできる「引きこもり」の方ではなく、偽りと誤魔化しに満ちた世界でも何の違和感もなしに人間社会を謳歌できる鈍感な人々の方ではないだろうか。
深い悲しみに支配されてしまえば、誰でもひとりきりになりたがる。それは今の人間でも古代の神々でも同じことだ。全てを遮断して、ひとりきりで自分自身と向き合って、こもりの中で浄化を促し、やがてまた世界を照らせる日を夢見ることをゆるされるのは、人間でも神々でも同じではないだろうか。
・心理学的「退行」は過去という時空への引きこもり
心理学の中には「退行」という言葉がある。「退行」とは人間の心の防衛機構の一種で、自分を「子供返り」「赤ちゃん返り」させることによって自分自身の心が壊されてしまうのを防ぐ働きがあるという。病的ではないささやかな「退行」ならぼくたちの日常生活にもあふれており、例えば「食事」「睡眠」なども子供時代へと戻ることができる軽い「退行」だという。そういえば食事や睡眠をするとやけに心が穏やかになると感じたことはないだろうか。これは「食事」「睡眠」がぼくたちを、傷つくことのない過去の世界へ軽くいざなってくれていることを意味する。
軽い「退行」ならば日常生活にあふれているが、これが病的な状態になると常に過去の自分に戻ってしまい帰って来られないという症状が発生する。つまり一時的にではなく本当に「子供返り」「赤ちゃん返り」してしまい、大人なのにとても幼稚な言動をしてしまうということになる。これはつまり人間が過去へと引きこもってしまった状態であることを指している。
「引きこもり」というと部屋や家などの空間に引きこもってしまう現象だけをぼくたちは想像しがちとなるが、実際には「退行」のように過去という時間へと引きこもる状態もあり得る。しかしその両方ともに共通しているのは、やはり自分を穢れた世界からなんとかして隔絶させてやりたいという、日本人的な浄化の祈りではないだろうか。悲しいことがあればあるほど、人は空間も時間も超越して、悲しみを浄化させるために引きこもってしまう。
・世界はあなたが思っているほど悪くはないと語りかけよう
引きこもってしまった人をもう一度外の世界へと導くためには何が必要だろうか。それは神話や昔ばなしが既に教えてくれている。すなわち悲しみに暮れている引きこもりの神々に向けて、この世界はあなたが思っているほど悪くはないよ、楽しいことや嬉しいことだっていっぱいあるよということを、外の世界から明るく知らせてあげることだ。中から出てこいと暴言で脅したり、無理矢理な暴力に任せてはならない。あなたの悲しみはなくならないけれど、それをも忘れられるほど笑顔になれることだって外の世界にはたくさんあるよと、慈しみ深く教えてあげることだ。これはまさにアメノウズメの舞い踊りがそうであるのと同時に、なんと「退行」の治療法もこれと同じようなことをするという。
古代から受け継がれてきた神話と現代的な心理学とは、ひとつにつながる。あまりに巨大な悲しみに目がくらみ、浄化のために引きこもってゆく魂たちが、慰められ外へと戻ってくる鍵は、底抜けの明るさにあるのだ。清らかで美しい魂を保ちながら大人になってしまった少年や少女が、偽りと暴力に満ちた人の世の穢れに耐えきれなくなり、浄化を求めて空間的にもしくは時空的に「引きこもり」を起こす。深い悲しみの根源は自らの魂に宿っており、生きている限りその運命や宿命から逃れることはできない。魂や運命に根ざした彼らの悲しみを、誰も消せない。
けれど諦めたくないのなら、もう一度彼らに出会いたいのなら、明るさで照らし出すべきだ。悲しみは消せない、宿命からは逃れられない、それでもまだ生きたいと望むのなら、自らの根源から押し寄せる暗闇さえも照らし出す、はるかなる光源を外の世界に求めて、信じて歩み出すより他はない。
・中島みゆき「泣かないでアマテラス」
中島みゆきの名曲に「泣かないでアマテラス」という曲がある。夜会「金環蝕」という演劇の中で中島みゆきはアメノウズメとなり、天岩戸の外から悲しみに暮れたアマテラスを励ますように「泣かないでアマテラス」を絶唱する。まさに神々しささえ感じさせる夜会の名場面のひとつだ。真っ赤なドレスをまとい、ウネウネと大地からまるで這い上がるようなダンスを踊る中島みゆきは、泥中に種があろうと水面に美しい花を咲かせる蓮の花のようだ。
悲しいことは仕方がない、嘆いて心を閉ざしてしまっても無理はない、それでも終わりには、どうか泣いて終わらないでと中島みゆきはアマテラスを励まし続ける。この夜会「金環蝕」において悲しみに暮れ心を閉ざした「アマテラス」とは、他でもない観客のぼくたちのことなのだと、全てを鑑賞し終わってから気づかされる。
アマテラス 悲しみは誰をも救わない
アマテラス 憎しみは誰をも救わない
私には何もない 与えうる何もない
君をただ笑わせて 負けるなと願うだけアマテラス アマテラス どこで泣いているの
アマテラス アマテラス 明日は泣かないで地上に悲しみが尽きる日はなくても
地上に憎しみが尽きる日はなくても
それに勝る笑顔がひとつ多くあればいい
君をただ笑わせて負けるなと願うだけ泣かないで 泣かないで 泣いて終わらないで
泣かないで 泣かないで 泣いて終わらないで