この世の誰もが両性の精神に支配されている。
女っぽい男は異常じゃない!男の肉体には男の心だけが、女の肉体には女の心だけが宿るというのは本当か?
目次
・男の肉体と女の肉体、男の精神と女の精神
この世には男の肉体を持っている人間と、女の肉体を持っている人間がいる。さらに彼らと接していると、男の肉体を持っている者たちはこんな感じの性格の傾向があり、女の肉体を持っているものたちはあんな感じの性格の傾向があるようだと次第に気がつく。つまりこの世にはなんとなくではあるものの「男らしい性格」と「女らしい性格」というものがあり、当然のように男の肉体を持っている人は男らしい性格を保ち、女の肉体を持っている人々は女らしい性格を保ちながら生きていく傾向にあるようだ。
心や性格や精神というものがまず肉体を発信源として出現しているというのなら、そのような傾向があるのは当然とも言えるだろう。男の肉体と女の肉体には様々な構造の違いがあるし、血液中に巡るホルモンの量や比率も異なっている。それらの肉体的な違いが総合的にまとめ上げられた結果、精神構造の違いまで生み出していくのだろう。そしてぼくたちは男の肉体には男の精神が、女の肉体には女の精神が宿るといつしか信じるようになっていく。
・男の肉体には男らしい性格だけが、女の肉体には女らしい性格だけが宿るというのは本当か?
しかし「男の肉体には男の精神が、女の肉体には女の精神が宿る」と信じ込むことによってある危険性も出てくる。それは男の肉体に女の精神が宿ること、女の肉体に男の精神が垣間見えることが”間違い”や”過ち”や”異常”だと見なされることだ。この世には男らしい性格と女らしい性格があるからと言って、男の肉体には男の精神だけが、女の肉体には女の精神だけが宿るというのは果たして本当だろうか。
ぼくにはそうは思えない。男の肉体には100%男らしい性格の成分しか宿ることは許されず、女の肉体には完全に女らしい性格の要素しか宿ってはならないというのは、極端な激しい思い込みではないだろうか。確かに男の肉体には男らしい性格が宿る場合が多いし、女の肉体は女らしい精神に支配されやすい傾向にあるだろう。しかしそれは「多い」とか「確率が高い」とか「傾向がある」というだけの話であり、100%絶対にそうだと断言することは極端で愚かしい浅はかな思想だ。
・男の肉体の中に潜む、男らしさと女らしさ
男の肉体を持っている人の精神の中にも、当然女らしい性格の要素は含まれている。1%とか、10%とか、50%とか、80%とか、99%とか、どれくらいの割合で男の肉体の中に女性的な精神の要素が含まれるかは人それぞれだが、少なくとも0%という男性はいないのではないだろうか。男の肉体の中にも必ず少しくらいは女性的な精神の要素が含まれているはずだ。
男の肉体を持つ彼の精神世界には、必ず「男らしい要素」と「女らしい要素」の両方が含まれている。その「男らしい要素」と「女らしい要素」の比率が、その人の性格を決める重要な手がかりとなるのではないだろうか。例えば男の肉体を持っているのだから当然精神的にも「男らしい要素」の比率は多く、「男らしい要素」:「女らしい要素」=9:1とか、8:2とか、7:3とか、そんな感じで「男らしい要素」により多く支配されるから、男の肉体を持つ彼は男らしさを保つ傾向にあるのではないだろうか。
しかしごく稀にこれが逆転し、「男らしい要素」:「女らしい要素」=2:8とか、1:9とかになる男の肉体も出現し、その場合は男の肉体の中に女性的な感性がより多く宿るという珍しい状況になる。しかしこれは珍しいというだけで、決して異常だとか間違いではない。たとえ男の肉体を持っていようとも「男らしい要素」と「女らしい要素」の比率は自由であり、個性であり、人それぞれであり、こうあるべきだという答えが用意されているわけではないからだ。従って男の肉体の中にあまりにも女性的な精神の傾向を見出すことでさえ、それはごく自然な当たり前の風景である。
男らしい要素を多分に持った男の肉体を持つ者たちは、女らしい要素が優勢となっている男の肉体の人々のことをからかい笑い者にするかもしれないが、それはお門違いである。なぜなら男らしい要素を多分に持った男の肉体を持つ人の中にも、必ず「女らしい要素」が含まれており、その比率がたまたま少なかったというだけだからだ。自分の中に確かに「女らしい要素」があるくせに、「女らしい要素」が含まれている人のことを笑うことはできまい。「女らしい要素」を馬鹿にするということは、すなわちそれが含まれている自分自身を馬鹿にすることに他ならないのだ。
上記の文章は男と女を入れ替えた場合もそのまま成り立つ。
・あらゆる人間は両性的で曖昧な生き物だ
あらゆる人間の肉体を支配する精神構造は、両性のグラデーションだ。男の中にも「男らしさ」と「女らしさ」の両方が様々な割合を持ちながら潜んでおり、女の中にも「女らしさ」と「男らしさ」の両方が多様な比率で存在している。それはただどちらが多いか少ないかだけの話で、両方を持っていることが自然なことなのだ。
だからどことなく女らしい男性を否定することは許されないし、なんとなく男らしい女性をあざ笑うことも許されない。彼らを否定することは、すべての人間を否定することにつながるからだ。彼らもまた、他の全ての人々と同じように、ただ両性のグラデーションを奏でているだけに過ぎない。自らの中に潜んでいる「男らしさ」と「女らしさ」の比率を、他の全ての人々と同じように運命的に受け取っただけだ。
男らしい男も、女らしい男も、女らしい女も、男らしい女も、全ての人々は精神を両性の要素に支配された中間的存在である。しかしその中でも特に「男らしさ」:「女らしさ」=5:5を享受する精神は、この世の中で魂を引き裂かれそうになりながらも、他にはない神聖な感性を帯びることだろう。