幼い子供でも懐かしいという情緒に涙を流すことができる。
「あの日あの時あのダルマ」「パパだって甘えんぼ」「おばあちゃん大好き」!のび太のおばあちゃんが出てくる話を語り尽くす
目次
・クレヨンしんちゃん「オトナ帝国の逆襲」
クレヨンしんちゃんの9作目の映画「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」は、世の中では名作として名高い。映画の中では、大人たちは敵の放つ“懐かしい匂い”によって完全に支配され、過去の時代へと帰りたがる。すべての大人たちは懐かしさの虜になり、懐かしい時代を求めて時代を逆行したがる。しかし5歳のしんのすけ他の子供たちは“懐かしい匂い”に支配されることがないので「懐かしいってそんなにいいものなのかな?」と訝り、懐かしみ過去を慈しむ大人たちと敵をなぎ倒し、自分たちの未来を切り開いていく。
ここに表現されているのは、過去の懐かしさに夢中になり支配されてしまう大人たちと、懐かしさがわからず懐かしさになんか支配されない子供達の対決だ。子供というものは、懐かしむほどの人生の履歴がないので、懐かしいと感じる心が欠けているということだろうか。
・ドラえもん「未来に目を向けなくちゃ!」
ドラえもんの「あの日 あの時 あのダルマ」という感動的な物語でも、懐かしさや過去への慈しみがテーマになっている。「なくしもの取り寄せ機」によって、過去の懐かしいものたちを次々に手に入れたのび太くんは、だんだんと懐かしい過去の世界へとのめり込んでいる。最終的には哺乳瓶を取り寄せ、小学5年生で哺乳瓶を吸いながら部屋の中に寝転び過去を懐かしむというとんでもない状態になってしまう。そんな時、ドラえもんはのび太くんを叱る。
「あのね、過ぎた日を懐かしむのもいいけど、それはもっと大きくなってからでもいいんじゃない?他にもっとやらなければならないことがあるよ。そんなことばかりしてないで、未来に目を向けなくちゃ!振り返ってばかりいないで、前を見て進まなくちゃ!」
この発言から垣間見えるのは、子供というものは懐かしがるものなんかじゃないというドラえもんの主張である。懐かしむというのは大量の過去を蓄えた大人の特権のようなものであり、過去が少量ののび太などの小学生の子供達は、過去を懐かしむよりも未来に明るい希望を見出せという意見を押し付けているのだ。ドラえもんが言うとこれは一見正論のように聞こえるが、本当に子供が懐かしいという感情を持つのはふさわしくないことなのだろうか。
・ドラえもん「あの日 あの時 あのダルマ」
ぼくは小さい頃からドラえもんのアニメをよく見ていた。みんなが見ている流行のアニメはあまり見なかったのに、ドラえもんだけは昔のビデオから大きくなるまで本当に大量の物語を見た気がする。数あるドラえもんの物語の中でも、ぼくが子供の頃でも感動して涙まで流していたのは、のび太くんのおばあちゃんが出てくる感動的な物語たちだった。
上に書いた「あの日 あの時 あのダルマ」もおばあちゃんが登場する感動的な物語のひとつだ。のび太くんが「なくしもの取り寄せ機」によって取り出した懐かしいダルマによって、のび太の中でおばあちゃんの思い出が蘇る。のび太くんの幼少時代、それはおばあちゃんが亡くなるすぐ前のことだった。泣き虫ののび太くんが庭で転んで泣いていると、病床に伏していたおばあちゃんが心配して庭に出てきた。そしてのび太くんに何度転んでも自分で起き上がるダルマを見せてこう言った。
「ダルマさんって偉いね。何べん転んでも泣かないでちゃんと起きるものね」
「のびちゃんもダルマさんみたいになってくれると、嬉しいんだけだどねおばあちゃんは」
「転んでも転んでも一人でおっきできる強い子になってくれると、おばあちゃん安心なんだけどな」
それに対して幼少時代ののび太くんはおばあちゃんと約束する。
「わかったよおばあちゃん。ぼく、ダルマさんになる。約束するよおばあちゃん」
それからすぐにおばあちゃんは亡くなった。おばあちゃんとの約束を思い出したのび太くんは、昔を懐かしむことをやめて未来に向けて頑張って勉強し始めた。
・ドラえもん「パパだって甘えんぼ」
「パパだって甘えんぼ」という回も感動的で、子供だったぼくでも毎回見るたびに泣いていた。のび太のパパが酔っ払って帰ってきて暴れて叫んでどうしようもないので、のび太くんがタイムマシンで過去に行って、親であるおばあちゃんに叱ってもらおうということになった。そして酔っ払ったパパがおばあちゃんに対面した瞬間、亡くなった母親に久々に会えた感動で思わず泣き崩れてしまう。そしてすっかり泣き疲れておばあちゃんの膝の上で子供のように寝てしまうのだった。
それを見たドラえもんは言う。「大人って可哀想だね。だってつらいことや悲しいことがあっても、寄りかかって甘えたり、叱ってくれる人がいないんだもの」それを聞いてのび太くんも気がつく。「そうか。自分より大きなものがいないんだね」
見ていたぼくは当時小さな子供だったのにも関わらず、ドラえもんが言う「大人って可哀想だね」というセリフでいつも涙が出て来たのを覚えている。
・ドラえもん「おばあちゃん大好き」
「おばあちゃん大好き」という回も感動的で有名で、この話は映画化までされているのでみんなが感動する話なのだろう。のび太くんが大好きだった亡くなったおばあちゃんにもう一度会いたいと駄々をこねて、タイムマシンでおばあちゃんに会いに行ったのび太くん。おばあちゃんを見かけることはできたものの、未来から来たことを説明してもおばあちゃんにはわからないだろうと会話できずにもどかしい思いをするのび太くん。
のび太くんが過去の自分の家でうろちょろしてママに見つかりそうになったところを、なぜかおばあちゃんは匿ってくれた。おばあちゃんにとっては見知らぬ少年のはずなのに、のび太くんのことを「なんだか他人のような気がしなくってねぇ」と全く怪しむ様子もない。
のび太くんは「のび太くんが可愛い?」とおばあちゃんに尋ね、おばあちゃんはこう答える。「えぇえぇそりゃあもう。いつまでもいつまでもあの子のそばにいて世話をしたいけど、そうもいかないだろうねぇ、わたしももう年だから。せめて小学校へ行く頃まで生きられればねぇ。あの子がランドセルをしょって学校へ行く姿、ひと目見たいねぇ」実際にはのび太くんが小学校に上がる前に、おばあちゃんは亡くなってしまったようだ。
その叶わなかったおばあちゃんの願いを、叶えてしまおうとのび太くんは決意する。急いで未来の世界へランドセルを取りに帰り、ランドセルをしょった姿で自分の正体を告白する。「ぼくののび太です!ぼく小学生の、のび太です!」
するとおばあちゃんは「やっぱりそうかい」とにわかには信じ難いのび太くんの話をすんなり受け入れる。「信じてくれるの?!疑わないの?!」と驚くのび太くんにおばあちゃんは答える。「のびちゃんの言うことを疑ったりするもんですか」
そこには、人を信じるとか疑うとかいう次元を超えた、直感的にとらえられる疑いようもない自分自身の中の真理の重要性が強調されているようだ。人を疑ったり信じたりするという浮世の低次元なレベルを超えて、のび太くんのおばあちゃんは直感的に、根本からのび太くんを信じ切っているのだ。むしろ”信じる”という動詞の権化になってしまっていると言っても過言ではない。しかし本来の理想的な人間関係とは、このように直感的に根本から信じ切れるという点にあるのではないだろうか。
彼が小学生ののび太であるという証明はどこにもない。論理的な証拠も根拠もひとつもない。それでも物事を信じられるという心を、ぼくたちは携えて生きていくべきではないだろうか。
・懐かしいという情緒を受け取る子供
これらのおばあちゃんの話を見ながら幼いぼくはいつも涙を流していたのだが、よく考えてみれば幼いぼくがこのような物語で泣くなんて不思議な話だ。なぜなら当時、ぼくの大好きなおばあちゃんは普通に生きていて普段からよく会っていたし、大切な人が亡くなるという悲しみも知らず、亡くなった人を思い強く会いたいという気持ちや、もし亡くなった人に会えたならどんなにか感動的だろうという想像もあまりできなかったに違いない。
そして幼少期のぼくは昔の時代を偲んで懐かしいと思えるほどに長い人生を生きてはいなかった。それでもなお、ドラえもんのおばあちゃんの物語から迫り来る、懐かしさとそのあたたかさというものに心は支配され、震わされ、涙を誘われていた。そこにはきっと、何か得体は知れなくとも、大人たちが感じるであろう懐かしさの情緒への感受性が作品から漂い、幼いぼくにも乗り移っていたのではないだろうか。
懐かしさを受け取る情緒があるかどうかは、実は生きてきた時間には依拠しないのではないだろうか。懐かしさを受け取る情緒を、幼い頃から大自然から受け継ぎ、精神の中にその根を培っていれば、それがたとえ完全には成熟していなくても、同じように根を持つ情緒を発信する人々の心たちと共鳴し合い、幼い子供にも懐かしさの情緒を感じたり、涙を流したりする可能性があるのではないか。
それはまるで波と波が重なり合い響き合うような、情緒の増幅による定常波が胸の中を揺れ動かすような、理由も知らない不思議な感覚だった。