越境者〜国を超えて〜

 

越境者〜国を越えて〜

・ウェア・アー・ユー・フロム?

異国を旅する旅人ならば誰もが聞かれる質問がある。“ウェア・アー・ユー・フロム?=どこから来たの?”という問いかけである。そして誰もが答えを用意している。すかさず答える。“アイ・アム・フロム・ジャパン”。

すると相手は満足する。まるでそれで何かをわかってしまったかのように、まるでそれで何もかもを決めてしまったかのように。けれどそれに違和感を覚える者はいない。異国の旅での人間の習いとして、そのやりとりは常にぼくたちのそばにある。

 

 

・ぼくは国だろうか

ふと立ち止まって考える。ぼくは国なのかと。

ぼくのことを聞くためにまず、国のことを問われるなんて、まるでぼく自身が国であるかのようだ。ぼくは人として旅をしていたはずなのに、ぼくはいつの間にか国という得体の知れぬものになっていた。

まずはぼくの名を聞いてほしい。何を好きかを問うてほしい。何を知るかを尋ねてほしい。ぼくは祈っていた、まずはぼくを人間としてゆるしてほしいと。

まず最初にぼくという存在を、国という虚像で囲い込むなんて、そこから彼らの中でぼくの人格の形成が始まるなんて、なんだかおかしな気がしたのだ。

 

・シベリア鉄道の韓国人大学生

シベリア鉄道の中で、同い年くらいの韓国人の男の子と友達になった。その他にはロシア人しかおらず、ロシア人はあまり英語を話さないので、必然的に彼と深く話し込むようになった。

彼は今大学生で、2年間の兵役を終えたところであると言う。韓国人は2年間の兵役の義務を課せられているので、大学の在学中に大学を通うのを中断して兵役へと赴くことが多いのだそうだ。

彼はまだ将来自分が何をしたいのかわからないので、このシベリア鉄道の旅で自分が何をしたいのか見つけたいと語っていた。ぼくは心の底から応援し、見つかったらいいねと励ました。

彼とはシベリア鉄道の中で3日間いろいろな話をした。日本にはない兵役というシステムについても詳しく知ることができた。

兵役中は筋肉トレーニングとか、なんらの訓練とか、そういう肉体的なことばかりするのだと思っていたが、彼はよく本を読んでいたと語り、そういうわけでもないようだった。

部屋も6人部屋で、シャワーも仕切りはなく、プライベートな空間がなかったそうだ。無給と思っていたが、給料は40000円くらい出るらしい。日本は兵役の制度がないことをとてもうらやましく思うと語っていた。ぼくはそんなのなくて当たり前だと思っていたが、その当たり前を幸福と感じる人々もいるのだ。

 

 

・東アジアの国々の関係

ぼくたちは東アジアの国々の関係についても隠さずに話し合った。

ぼくは、人々が集まって国が出来上がるはずなのに、人々と国というものはとても遠いところにある概念のように感じると自分の意見を述べた。たいてい人間というものは、それぞれの人々は善良で優しいのに、集団になったり国ということになると、なぜか凶暴化して、罵り合ったり憎み合ったり、時には殺しあったりもするのだ。彼もぼくの意見に賛同していた。

そして、東アジアの“国々”は仲が悪いが、人々が人として憎み合っていることは自分たち自身のためによくないこと、国という集合体の概念に惑わされず、ぼくたち若い人々は新しい関係を築き上げなければならないこと、中華人民共和国は現在世界でNo2、日本は世界でNo3のお金持ちなのだから、経済的観点から言っても東アジアの国々が仲良くできれば世界で最強のエリアができるのではないかということなどを話し合った。

 

 

・東アジアの若い人々

特に強調したのは、ぼくたち若い人々は新しい関係を構築し直さなければならないこと、それこそがお互いの大きな利益になるだろうということだった。

老いて既に洗脳されてしまった人々はもう手のつけようがないし仕方がない。けれど若い人々はインターネットを通してお互いに交流がしやすくなっている。インターネット上はどの国でも自国を強く愛する人々が目立ってあふれているという側面もあるものの、お互いがお互いに直接繋がって理解し合えるという利点もあることだろう。

ぼくたちは多くのことを語り合った後に、ぼくはイルクーツクで降車し、彼はモスクワまで鉄道の旅を続けた。

もしもぼくたちが、国という概念に取り囲まれたままで会話していたならば、ここまで語り合うことができただろうか。ぼくたちはお互いに人として、人間として相手を尊重し、お互いの声に耳を傾けていた。

それはどのような人々と接する上でも最も大切なことではないだろうか。ぼくたちがもしもインターネット上の雰囲気に飲み込まれて、国という概念から演繹させたイメージをお互いに抱いていたならば、もはや心がつながることもなかったかもしれない。

 

・国境(くにざかい)という幻

ぼくは国というものを考えなければならないときにいつも思う。

鳥は自由に大空の国境を飛び越えていくし、魚だって大いなる海を好きなだけ泳いで渡ってゆく。国境というものを考えて、争い合い、苦しみ、もがいているのは人間だけだと。

人間だって最初から国というものなどを知っていたわけではない。赤子ならば、生まれたての魂ならば、何も感じずに国境線を越えていくだろう。真実は、境界線などないのだ。

それを知っている、鳥や、魚や、赤ちゃんは、なんともえらいなと思うのだった。

 

 

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