他人の目を気にして「部品」になるよりも自分を貫き「全体」としての生命を生き抜こう

 

他人の悪意や気分に合わせて生きられるほど、人生は暇ではない。

他人の目を気にして「部品」になるよりも自分を貫き「全体」としての生命を生き抜こう

・空気を読んで部品になろう

「空気を読んで周囲に合わせて生きていれば、傷つくことはないだろう。」そのように見積もって自分自身の意思をそっと退け、他人の目を気にし、他人に悪く思われないことを目指して生きるという方法は、日本人としては珍しくないだろう。

この国では、周囲や他人に合わせない「空気を読まない」ことは悪しきことだとされ、「和」という協調性を乱す者は集団から排除されようとする。自分という個人を尊重することよりも、集団が波風立たずに丸く存続できることを目指す社会を生き抜くためには、自分がどう思われるのかを気にし、自分がどうあるべきかを考えるよりも、他人の気持ちや思いを必要以上に慮って、その時々で自分を柔軟に変化させ周囲に合わせて、何とか嫌われないように嫌われないように、何とか集団の中に馴染めるように馴染めるようにと努力する他はない。

世界を平穏に保ちたいならばそれもいいだろう。嫌だということを嫌とも言わず、断りたいことを断ることもできず、自分が攻撃されず傷つけられず、世界が滑らかに流動する気配を感じ取りながら、自分の心を柔軟に変化させていくという生き様。他人に合わせる自分を「優しい」存在だと誇りに思い、他人に合わせない者たちを「わがまま」な奴らだと蔑んでいく。しかしそれはただ単に都合のいい人間として集団や大きな権力に利用されているだけの可能性も大いにある。

自分が都合のよい世界の部品であることを願い、部品として欠落した感覚を覚えながら生きることを選んだのならば、それもひとつの世界の生き延び方として認められるべきだろう。しかしぼくたちは、昔から他人の目を気にする都合のよい部品だったのだろうか。

 

 

・ぼくたちは全体として生まれてきたはずだった

ぼくたちはこの世に生まれ落ちた瞬間から「部品」ではなく「全体」として、精一杯この世界を生き抜く生命の塊だったはずだ。集団における自分の存在など全く自覚せず、むしろこの世には自分しかいないのだ、自分こそがこの世の王なのだと思い込み、自分一人ではこの世で立つことのできない欠落した「部品」ではなく「全体」の生命として生きるという炎を爆発させる。

決して「全体」であることを諦めずに、決して「部品」へと流されることを肯わずに、純粋な感性と生命を世界全体に向けて大いに発信し、自分という存在の無限を必死に確かめようとする。この世界の王である生まれたての子供は、自分以外にも心があり自分以外に生命があるのだということに、気がつけずにいる。もしかしたら自分以外の生命は、自分が生きるための都合のいい道具だと思っているのかもしれない。

自分が集団のための部品として生きることを、どうして受け入れなければならないのだろう。ぼくは、ひとつの全体として、ここに在るのに。一体何がぼくを部品への道に仕向けるのだろう。集団へ絡め取られるように騙すのだろう。

 

 

・傷つかないために生まれてきた者たち

自分を貫くことは誤りだと見なされてしまう。集団を乱すことは悪だと睨まれてしまう。この世界では、燃え盛る個体の炎を無視して踏みにじってでも、蠕動する集団の存続を優先してしまう。どう見られているかをうまく計算する者だけが生き残る世界。どうあるべきかを貫いた者たちは八つ裂きにされる世界。

他人の目を気にして、空気を読んで周囲に合わせて、自分が傷つかないために生まれてきた人生だったのだろうか。いつから自分が傷つかないことが、生きる目標になったのだろうか。どんなに傷ついても心のままに走り回った、「全体」として生きていた自分はどこへ消えたのだろうか。

この肉体に多くの傷をつけてでも、この魂にさらなる傷を抱えても、たどり着くべき国があったのではないだろうか。生きていくほどにその国を見失って、道しるべを失って、心が彷徨って、何のために生まれてきたのかわからなくなる。赤子の頃には誰もが知っていたその答えを、誰もが見失いわからなくなる。そして自分が、傷つかないために生まれてきたのではないかと思い込む。自分の弱さに慣れ果てて、自分の弱さを可愛がるようになり、弱さは心から全身に広がる。

自分が傷つかないための人生。自分を可愛がるための人生。その先にはどんな世界が見えているのだろうか。自分を守って、自分をかばって、その中にある「自分」とは、どれほどに価値のある存在なのだろうか。守られるだけの価値のある人間なのだろうか。守られたその先で、何を成し遂げるべき存在なのか。

”我を守り 我をかばい
鎧うほどのものが中にあるのか”

中島みゆきの歌がどこからか聞こえてくる。

 

・傷つきながらも生きてゆく者たち

他人の目を気にして空気を読んで他人を傷つけないように気をつけるのは、自分が傷つけられないようにするため。しかし他人の悪意や気分に合わせて生きられるほど、人生は暇ではない。ぼくたちは傷つかないために生まれてきたわけではない。逆らいながらでも、傷つきながらでも、自らの進むべき方角へと足を進めていかねばならない。

どう見られるかどうかよりも、どうあるべきかの方が重要だ。自らの進むべき方角を見失ったのならば、自分自身に問いただすまでだ。答えはあなたから去っていなくなったわけではなく、あなたの奥底の森林に隠れてあなたには見えなくなっただけのことだから。答えは常に、あなたと共にある。行くべき世界が、あなたの中で、あなたを待っている。

”あがいてもがいて 1日がゆく
喚いてほざいて 1日がゆく
逆らい歯向い 1日がゆく
当たって砕けて 1日がゆく”

常識や正しさや多数に守られることができないぼくたちは、むしろそれらを退き傷だらけの歩みを進めよう

全体としての自分の生命を取り戻そう。傷つきながらも愚かに生きる自分を受け入れよう。集団の中で自分を貫けば、自分が傷つく。和を乱そうとは思わずとも、腰を折ろうとは願わずとも、全体としての自分を純粋に貫こうとすれば、いずれ傷つく。ぼくたちは傷つかないために生まれてきたんじゃない。傷つきながらでも、滅ぼされながらでも、たどり着きたい国への道しるべが魂の底で灯火として燃えているのならば、それに従うまでだ。

他人の悪意や気分に合わせて生きられるほど、人生は長くはない。

 

 

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