日本人がカンボジア人を殺害したというニュースから人間の苦しみの根源を問う

 

日本人がカンボジア人を殺害したらしい。

日本人がカンボジア人を殺害したというニュースから人間の苦しみの根源を問う

・「日本人がカンボジア人を殺害した」

本日20代の日本人男性2人がカンボジアにおいて、タクシー運転手のカンボジア人を殺害したという衝撃的なニュースが流れた。殺人の動機はなんと金が欲しかったがための強盗殺人であったという。カンボジア人のタクシー運転手がそんなにいっぱいお金を持っていると思っていたのだろうか。

この衝撃的なニュースに関しては、日本のインターネット上でも様々な声が聞かれた。

日本人がこんなことするなんて信じられないという驚嘆の声や、日本の恥だという怒りの声、カンボジア人の皆さんごめんなさいという悲痛な声や、死刑にしてもらっても構いませんという過激な声も少なくない。

ぼくが人々の意見を見ていて感じたのは、みんな「国」としてこの事件をとらえているということだ。「日本人」が「カンボジア人」を殺害したという事実が最も重要であり、それゆえに、同じ「日本人」としてこのような残酷な事件を起こした「日本人」を恥ずかしく思い、また「カンボジア人」のひとつの命を奪い去ったことに心を痛め、「カンボジア人」の人々に申し訳ないと思っているようだ。

人間というものはこういう場合、国という単位で物事をとらえて怒ったり悲しんだり申し訳なく思ったりする生き物のようだ。

 

 

・「人間が人間を殺害した」

たとえばこのニュースが「人間が人間を殺害しました」という風に流されたとしたらどうなるだろうか。

殺人という事件が心痛む出来事であることに変わりはないが、「日本人がカンボジア人を殺害しました」というニュースよりも、怒りや悲しみや憂いや恥ずかしいという気持ちが日本の人々の間で、はるかにわき起こりにくいのではないだろうか。

「人間が人間を殺害しました」も「日本人がカンボジア人を殺害しました」も、事実としてはまったく同じ出来事を伝えているにも関わらず、人間の国の所属を明らかにすることによって、自分の所属と事件の所属を照らし合わせ、様々な苦しみや怒りや憂いが生じてくるというのは興味深い事実だ。

この事件においてカンボジアで「人間が人間を殺害しました」というのは明らかな事実であり、この出来事を的確に伝える文言である。にもかかわらずこの事実だけを聞いても、誰もあまり驚かないし、苦しみや怒りや憂いもそんなに生じてこないだろう。ああそうなんだと感じて終わる人々がほとんどではないだろうか。

しかしこの文章を「日本人がカンボジア人を殺害しました」と所属を詳細に言い換えた途端、今回のように世の中は苦しみや怒りや憂いに満たされる。人々は自らの所属があるからこそ、そしてそれを意識したときにはじめて、人生の中でひどく苦しんだり怒ったり憂いたりする生き物なのだろうか。

 

 

・感情は分けられた世界から生じる

しかし国という所属を意識することで、逆に喜ぶような場合もあるだろう。

たとえば「マラソンで日本人がカンボジア人に勝ちました」というニュースを聞いたならば、日本人なら少しは喜んだり嬉しい気持ちになるに違いない。自分が努力して勝利したわけでもなければ打ち負かしたわけでもないのに、人間というものは自分の所属を意識すると、それに応じてまるで自分のことのように歓喜したり心躍らせたりするものだから不思議である。

逆にこのニュースが「マラソンで人間が人間に勝ちました」と言われたところで、喜んだり悔しがったりする者はいないし、興味が示されることもあり得ない。人間は所属があるからこそ、大いに喜んだり嬉しがったり、逆にひどく苦しんだり怒ったり憂いたりするようだ。

所属というものは何も日本やカンボジアという国に限ることではなく、男や女、大人と子供、生きる者と死んだ者、祖国と異国、愛と毒など、人々は生きる上において様々な境界線を設定しながら生きている。

本当はひとつのこの世界を意識によりふたつに分裂させ、自分はそのどちらに所属するのかを自らに問い、その答えを意識することによって、ひとつの世界に住んでいたときよりも、より過激に喜び嬉しがり、また激しく苦しんだり怒ったり憂いたりする。

世界を分裂させることは、ぼくたちに激しい感情を与えては、生きることに迷いや惑いを与えるものらしい。その最悪の極限に位置するものが、人間の世界における戦争と名付けられた残酷な殺戮かもしれない。もしも分け隔てられない世界において、安らかに生きることができたなら…。

 

 

・中島みゆき「産声」

中島みゆきの「産声」という歌に、次のような歌詞がある。

”誰かがわたしに問いかける
何びとであるか問いかける
聞きたい答えは既に決まってる
わたしが属する国の名を聞きたがる

生まれはどこの国
心はどこの国
それだけで聞き終える
何もかも聞き終える”

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・ひとつの世界への帰還

あらゆる神話の中では、世界は混沌からはじまる。そこから世界はふたつに分裂し、やがて人間の誕生へと繋がっていく。

もしもぼくたちが惑いや苦しみのない、ひとつの世界への帰還を望むというのなら、そこに安らかな真理がぼくたちを待ち構えているというのなら、ぼくたちは憂うことなく旅を続けていかなければならない。

自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。怠ることなく修行を完成させなさい。

 

 

 

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越境者〜国を超えて〜

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