子猫とぼく
A.M.3:00。
闇の中から聞こえてきた。
生きる淋しさを告げる鳴き声。
夜の闇をひたすらに引き裂いてた。
孤独を孤独と名付ける術を知らないという孤独の泣き声。
幼い生き物の声はどれも甲高い。
天空を分かつほどに澄んでは響き渡る。
けれどおそらく恐ろしく低い声も隠し持っているのだろう。
大地を揺るがすほどに神聖な呻吟。
ふたつを併せ持つことから
幼さはかけがえのない尊さを増す。
夜の帳を間欠的に切り刻む声は
やがては心の布さえ引き裂いて
眠ることをひどく妨げる。
それは異質のものが外界から内面へと侵襲を繰り返すという事態に反応した結果、防衛本能が不意に自発的に生み出す仕方のない種類の波動の感受ではなく、同じように生きることの淋しいものが、己の外界のしかも闇夜の中の不確かな【どこか】に密やかに潜んでいるのだという、同質のものが心の水面に引き起こす共鳴の足跡。
胸騒ぎは振幅を増大するばかりだった。
同じものは非合理に共鳴を果たす。
どんなに空間を隔てていても。
どんなに時空を跨いでいても。
同じものは無秩序に お互いの心へと共鳴の波を運ぶ。
まるでどこかで一度出逢ったかのように
まるで生まれる前に優しく手を握り合ったかのように
非科学的な親縁は夜の闇の混沌に紛れた。
A.M.9:00。
目覚めてもなお鳴き声は収まることを知らない。
闇夜を鋭い切なさで引き裂いていたその声は
今度は無遠慮な朝の光さえも切り刻もうとしていた。
夜は鳴き声の孤独に引き裂かれて死んだのだろうか。
その結果として古い一日は取り払われ、新しい朝が迎えられたというのだろうか。
そして今孤独は、新品の朝でさえも早速殺そうとしている。
幼さは知らない。
古いということと新しいということの境がわからない。
どちらが価値のあるものかを知らない。
古ければ古いほど価値を表出させるものもあれば、新しければ新しいほど高価で売れるものもある。
その基準はどこにあるのだろうか。
その裁きは誰が下すのだろうか。
そして生命とは、そのどちらに属するだろうか。
幼さは天真爛漫を伴って、何もかもを殺し、転生させる神聖をそのあどけなさに秘めている。
無邪気でそれ故に深遠な孤独に魅かれて、ぼくは鳴き声のする方向へと向かう。
庭の片隅の、蓋の取り払われた発泡スチロールの箱の中に、その小さな生命は縮んでいた。
大きな瞳がこちらを見つめていた。
けれど瞳は片方しか開いていない。
左側の目は潰れてしまったのだろうか。
四肢は怯えからか、ひどく震えていた。
小さな生命は鳴いていた。
ぼくが訪れてからも、いつまでもいつまでも鳴いていた。
発泡スチロールの中で、小さな生命の凝縮された濃厚な塊となって、いつまでもそこから出ようとはしなかった。
まるで発泡スチロールの中で一生を終えようとしているかのように。
撫でてやっても震えていた。
笑いかけても怯えていた。
あらゆる優しさを疑っていた。
すべての注がれるものを吸収する際に、毒へと転換させる力を備えていた。
信じることを知らなかった。
昔は知っていたのかしら。
無邪気に愛を信じることを。
昔は信じていたのかしら。
愛されるために生まれたこと。
怯え切った瞳は目を合わさず
疑う心は隙を見せず
ただ信じないためだけに生きていた。
たとえどんな国に住んでも。
生まれたときからひとりぽっちなの?
ずっとひとりで鳴いているの?
生まれてきてよかったと感じたことはないの?
生まれてこなければよかったと震えているの?
それとも 生きていることにも気付かないでいる?
あなたがとても震えて生きているから
ぼくは涙が止まらなくなる。
幸せになることはどうするの?
幸せになることをあきらめたの?
誰も信じず生きていくの?
まるでぼくのように。
運命の軌道を自らこしらえ
それに沿わないものたちは遠ざけた。
悲しい軌道を走る列車でなくてはならなかった。
たとえ軌道を外れて訪れるものが幸福であっても。
凍えた心の泉に氷を張って
氷の下の水は澄み切る。
もう誰にも穢させやしない。
柔和な慈悲も、偉大な思想も、崇高な神も。
あなたが、あなたの、神であれ。
やがて母が家から出て庭へ来る。
そしてぼくに申し付ける。
山の中へ捨てていらっしゃい、と。
A.M.11:00
歩けど、歩けど付いて来る。
ここは近所の公園。
しかし、多岐に渡る山道を含む広大な山の一帯を公園と表現しているに過ぎない。
首根っこを掴んで
自由な緑の大地へと解き放てば
もうあなたの世界は発泡スチロールの中ではない。
あどけない小さな生命の世界は
人間の都合により
無遠慮に広大に押し広げられた。
狭小な世界で何も知ることなく
一生を終えようと企んでいたのに。
それこそがもうこれ以上は傷付かない
唯一の手段だと踏んでいたのに。
運命はそれをゆるさなかった。
人為ですら当然、運命に含まれる。
誰も信じず生きてゆくと
固く閉ざした心のドアは脆く
固く閉ざすということが何よりも明白に示していた。
誰かを信じたいと。
心のドアの成分は青白い薄氷。
どんなに固く閉ざそうとも
護り抜くには透明過ぎた。
何を護ろうとしていたのだろう。
澄み渡る薄氷の城の中で
この世の中で生きているのは自分だけなんだと
信じることでしか生きる術を見つけられなかった。
不器用で気高い誇りの衣を纏って。
信仰するのは荒ぶる神。
燃え盛る 自分を愛する焔。
薄氷の城は融解を知らされていた。
誰かが救い出してくれるのを待っていたのね。
汚れた発泡スチロールの冷えた影から。
運命の線路をしかと辿る者を演じて
恒常的に無秩序な逸脱を夢見ていた。
整然に無秩序が流れ込むように
恒常に無常が注ぎ込むように
文明に混沌が融け込むように
あなたは赤く熱い破壊を望んでいた。
気付けばあなたの左目は開いていた。
両の瞳で世界を見つめていた。
そしてぼくを見つめていた!
潰れていたと思っていた左目は、ただ目ヤニが眼瞼に乾きこびりついて開けないだけのことだった。
確かに、人間は発達した長い指で海のように潤った眼球のすぐ近隣にできた目ヤニの乾き切った砂漠をいとも容易く取り除くことができるが、あなたの小さな肉球ではその限りではない。
もしかしたらその鋭い爪が己の眼瞼の隙間を縫うように入り込み、眼球を損傷するおそれすらあるのかもしれない。
自分で自分を傷付けること。
自ら幸福から遠ざかること。
あなたの孤独には、深い誇りが入り混じっている。
もしもあなたの孤独に色があるのなら
それは夏のプロヴァンスに注ぎ込むような透き通る黄色の眩しさ。
昨夜の天候は台風の襲来による激しい大雨だったが
もしもあなたの声に導かれ夜の庭へと足を踏み入れたならば
目眩を起こしそうな明らかな月が 天に昇るのを確認しただろう。
澄み切った丸い孤独。
あなたを照らすただひとつの光。
あなたはその光を頼りに時空を辿るのでしょう。
その光を頼りに世界を見るのでしょう。
どうしてその光によってしか認識できないのだろう。
どうしてその光の中でしか生きられない。
あなたとぼくは とても似ている。
あなたの潰れたと思った左の目を見て
盲目とはどういうものかを思案していたのに
それは徒労に終わった。
あなたには両の目が備わっていた。
ぼくにはそれが少し淋しい。
大きなふたつの瞳は
あなたがとても小さい身体をしていることから 相対的にさらに大きく麗しく輝いて見えた。
そして小さな身体が瞳のサイズを大きく見せかけたのと同様に
大きな瞳が身体の小ささやささやかさや愛らしさを強調していた。
小さいものは可愛い。
ささやかさものは優美である。
この島国において小さいことほど重要なことがあるだろうか。
ささやかさことほど愛される素因があるだろうか。
大きなものは醜い。
偉大なものは見苦しい。
おかしな白人的流行の到来によって
長い脚や大きな背丈や目立つものが憧れられているように錯覚を起こすけれど
この国の民は忘れていない。
小ささきものを愛する心を。
愚かなものを導く優しさを。
弱きものを慈しむ慈悲を。
心の上澄み液より奥深く、もはや地図さえ失くし誰もが辿り着き方を忘れてしまったような、幽閉された暗く湿った深緑の聖地にて
この国の民はなおも小さきものを愛で続けている。
A.M.11:30
小さいあなたが付いてくる。
後から後から付いてくる。
逃げても逃げてもぼくの後ろに従って来る。
あなたが小さく歩み寄るから
ぼくはあなたを好いてしまった。
振り切って早々と家路に着くことも可能ではあったが
そして捨ててきた成果を母親に言い渡し 彼女の満足を得るには簡単だったが
ぼくはあなたを好いてしまった。
小さいあなたを好いてしまった。
こんなに凸凹の山道を
あなたは歩いたことがないのではないか。
それでも必死になって ぼくを逃がすまいと追いかけてくるあなたが
ぼくの歩調を穏便に緩やかにさせる。
先ほどは目も合わせてくれなかったのに
四肢は疑いで震えて不動を不可能なものにしていたというのに
今はもうぼくの方だけを見ている。
信じ付いていくものを見つけて喜んでいる。
発泡スチロールの世界を脱出して
青白い薄氷の城を融解して
中から外へと雪崩のように注ぎ込んだものは
誰かを信じたいという欲望だけだった。
とても切ない その生命や運命と悉く相剋を成すような 残酷な祈り。
あらゆるものを疑ってきた分
心理の川底に押し込められ 捻じ曲げられ 失神し 眠らせることに成功したように見えた
純粋な祈りの集合体。
その祈りが向けられた矛先が
ぼくであることがこの上なく嬉しい。
誰も信じないように信じないように
冷たく熱く努めてきた孤独が終焉を成し
その代替として内から外に注がれたものが
ぼくに注ぎ込まれたことが嬉しい。
あなたは容易く城を破壊した。
ぼくはどうだろうか。
それともぼくとあなただから
容易く崩壊したのだろうか。
歩き疲れて山路の傍の石造りの椅子へ腰掛けると
あなたがぼくの足の周囲を巡り周る。
ぼくが椅子の上へとあなたを上げてやっても
あなたはすぐに地上へと着地し
ぼくの足の周囲をぐるぐる周る。
そのうちに爪を鋭く立てて
ぼくのズボンの繊維をとらえ
上へ上へと登る登山の楽しみを見つける。
ぼくのズボンからは糸がほころび出てきて
それすらあなたの生きる楽しみの発見の犠牲には 到底小さすぎるように感じる。
ズボンを登り終わるとぼくのシャツをも登ろうとする。
そしてシャツの糸はほころびる。
ぼくは笑ってそれを楽しむ。
そのうちにぼくの体温に顔をうずめる。
額を押し付け安堵の表情を認める。
ぼくはとうとう愛おしくなる。
ぼくが愛しい人にそうするように
あなたも愛しい友にそれをするのだね。
ぼくが人間だということがなんだろうか。
あなたが猫だということがなんだろうか。
人間と猫を隔てる境界線は天空へと発散し
ぼくはあなたと隔たりのない友となる。
あなたには境界がないのだろう。
なぜなら言葉を持たないのだから。
言葉を持たないことが羨ましい。
言葉は境界を生み、永劫の戦を生む。
けれど人間のぼくは融かした。
あなたとぼくの境界を融かした。
境界を融かすためにぼくは生きているのではないだろうか。
繋がれたふたつの生命が軽やかな明るい躍動を伝える。
その躍動が浅い切なさを発する。
ぼくはあなたを置き去りにしなければならない。
非道い目に遭って誰も信じられなくなったあなた。
幸福を自ら遠ざけ薄氷の城で心を凍結したあなた。
闇夜を引き裂くように悲鳴をあげていた黄色い月のあなた。
今すべての軌道から非合理に脱出を遂げたあなた。
本来の祈りをほとばしらせることで生きる美しい物語を編んでいるあなた。
誰かを信じること、信じるという喜び、それは生きるという明るさにすらりと伸びるように繋がってゆく。
それはぼくの知らない明るさ。
けれどもあなたの得た明るさが清流としてぼくにまで伝いながら
ぼくの心の底にまで流れ込んでいく。
生まれてきてよかったと思った?
生きていてよかったと思った?
ひとりじゃないんだって感じた?
生きている躍動を感じる?
もしもそうならばぼくは嬉しい。
自分のことのように 泣いてしまうほどに ぼくは嬉しいよ。
疑うことも忘却したような瞳の輝きが
裏切られるなんて思いも寄らないあどけなさが
ぼくの胸を苦しめることをやめない。
ぼくは裏切らなければならない。
あなたを裏切らなければならない。
どうしてもあなたを去らなければいけない。
ひとりに戻ったあなたは
何を思うのだろうか。
どんな感情の渦の中に溺れて
この先を生きながらえていかなければならないのだろうか。
ひとりになんて戻るはずがないと
あなたの瞳が確信している。
信じたものが裏切るはずはないと
無垢な情熱が燃えている。
ぼくもあなたを愛している。
ぼくもあなたを信じている。
それなのに…。
裏切られたあなたは
今度こそ本当に
誰かを信じることをやめるだろう。
疑いの焔は黒々と燃え上がり
あなたの内部の焔であるのに制御を外れ あなたの外側すら隙間なく包み込んで燃やし尽くし 心を無きものにするだろう。
あらゆる心理的な有機体は空中を舞い 死よりももっと死らしい生を湛えた悲しみの灰と化すだろう。
再発した病は、初発よりも確実に純粋な魂を蝕んでゆく。
ぼくにはわかるんだ。
ぼくだからわかるんだ。
ぼくも既に 再発に殺された。
ひどく疑うものから
悉く信じるものへと
転生を遂げたあなた。
そしてまた死に
今度は既にあらゆる臓器に転移したおぞましい腫瘍のように あらゆる心の部分を蝕む疑いを携え 生きながらえていかなければならないというのか。
どうしてあなたが病気なんだ。
どうしてあなたが選ばれたというんだ。
どうしてあなたが幸せになってはいけないと天は告げるのか。
あなたには何の罪も穢れもない。
人間ならば不条理に苛まれて
寺へ駆け込むこともできよう。
話を聞き、金を払い、救われたように自らを錯覚させることもできよう。
しかしあなたは!
あなたはどのように生きなさる!
今度は疑いではなく不条理の海にさえ飲み込まれ
悉く魂を食い尽くされなければならないというのか。
言葉を持たないから安心だろうか。
本当はあなたに心すらないのだろうか。
しかしそんな論理的考察は今のぼくには通用しない。
ぼくとあなたは繋がっている!
生きることは苦しい。
あなたが生きることは苦しい。
誰も生きることはつらかろうが
あなたの苦しさはぼくにはひどく切ない。
どうかもう生きているということを
嘆き悲しまないでほしい。
とても愛しいあなただから。
どうかもう生まれてきたことを
悔やまないでほしい。
とても大切なあなただから。
ぼくのようには どうかならないで。
生き続ける限り
悲しみの豪雨はやまないの?
生き続ける限り
打ちひしがれるようにできているの?
生きることは何かの罰なのだろうか。
生きることは償い切れない罪の証だろうか。
どんな悪を担い続けながら 無様に生きることは持続されるだろう。
ふと見る、あなたのあどけない眼差しが、天の瞳のように映った。
P.M.12:00
いたたまれないぼくは
わざと道端の溝を跨いで向こう岸へ渡る。
溝は細く小さいけれど水が大いに湛えられている。
あなたはぼくを呼んでいる。
愛しい声で呼んでいる。
しかし、ぼくとあなたの間には川。
ずっと付き従ってきたあなたは明らかに戸惑っている。
こちらの岸へ来られるだろうか。
あちらの岸から来られるだろうか。
此岸と彼岸の中点だけが
天へと通じる道となる。
あなたにはこの溝が
大河に見えているのだろうか。
秋の水は清らかなれど冷ややかで
高く澄んだ空が水面に映っている。
意を決して
あなたはジャンプした!
溝の水へと思いっきり浸る。
かと思うと、すぐに水を抜け出しぼくのもとへと、ちょこちょことやってきた。
ぼくは喜び、切なさは速やかに秋空へと帰った。
すごいね、すごいねと執拗に撫でてやった。
冒険しているみたいだね。
ふたりでいると楽しいね。
生きることはわくわくするね。
特に清らかで純粋なものたちにとってはそうなんだ!
彼岸から此岸へと渡ってきたあなた。
もしかしたら生まれる前も
こうやって巡り会っていたのかもしれないね。
P.M.12:15
ぼくたちは真っ赤な橋へと辿り着いた。
日本の橋が赤いものが多いのはどうしてだろう。
神社の色だから?
神様が宿っているの?
橋は大きな池に架けられていて
池からの高さは50メートルほどだろうか。
幼い頃はよくこの橋で遊んでいた。
とんでもない橋の高さと池の大きさを恐れながら渡ることが楽しかった。
ぼくが橋を渡ろうとしても
あなたは当然のように着いてきた。
信じているから当たり前だね。
一緒にいるのが普通だね。
ぼくが山道と同じように橋を歩いて渡っていると
あなたには表面が凸凹したこの橋の道が少し歩きづらいらしく
ぼくとあなたの距離は少しずつ離れた。
あなたはぼくを見失ったらしい。
大きな声で可愛く叫んでいる。
ぼくはあなたの来るのを待つことにした。
橋の真ん中で待つことにした。
ぼくを見失って戸惑ったあなたは
ぼくをさがしながら 誤ってこちらではなく元来た道を帰ろうとした。
あなたの歩行はたどたどしかった。
確かにこの橋の凸凹の表面は足の面積の小さなあなたには歩きにくい。
あなたは叫び続けている。
信じているぼくを呼び続けている。
信じている人が見当たらない!
裏切られるはずはない!
我を忘れたあなたは
橋の歩道の隅を歩きすぎ
不安定な歩行も手伝ってその身はよろけた。
危ないと思った瞬間に あなたは池へと真っ逆さまに 落ちて行った。
あなたは広大な池の真ん中を暫く必死に泳いだけれど
陸には辿り着かずに動かなくなった。
薄氷の城を立ち去り
信じ信じられるものを見つけた
その生命の美しい頂点で
あなたは死によって 選ばれていた。